ったのである。
ところが嘉靖《かせい》年間に倭寇《わこう》に荒されて、大富豪だけに孫氏は種※[#二の字点、1−2−22]の点で損害を蒙《こうむ》って、次第※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に家運が傾いた。で、蓄えていたところの珍貴な品※[#二の字点、1−2−22]を段※[#二の字点、1−2−22]と手放すようになった。鼎は遂に京口《けいこう》の※[#「革+斤」、第3水準1−93−77]尚宝《きしょうほう》の手に渡った。それから毘陵《びりょう》の唐太常凝菴《とうたいじょうぎょうあん》が非常に懇望して、とうとう凝菴の手に入ったが、この凝菴という人は、地位もあり富力もある上に、博雅《はくが》で、鑒識《かんしき》にも長《た》け、勿論学問もあった人だったから、家には非常に多くの優秀な骨董を有していた。しかし孫氏旧蔵の白定窯鼎が来るに及んで、諸《もろもろ》の窯器《ようき》は皆その光輝を失ったほどであった。そこで天下の窯器を論ずる者は、唐氏凝菴の定鼎を以て、海内《かいだい》第一、天下一品とすることに定《き》まってしまった。実際無類絶好の奇宝であり、そして一見した者と一見もせぬ者とに論なく、衆口嘖※[#二の字点、1−2−22]《しゅうこうさくさく》としていい伝え聞伝えて羨涎《せんせん》を垂れるところのものであった。
ここに呉門《ごもん》の周丹泉《しゅうたんせん》という人があった。心慧思霊《しんけいしれい》の非常の英物で、美術骨董にかけては先ず天才的の眼も手も有していた人であったが、或時|金※[#「門<昌」、第3水準1−93−51]《きんしょう》から舟に乗り、江右《こうゆう》に往く、道に毘陵《びりょう》を経て、唐太常に拝謁を請い、そして天下有名の彼《か》の定鼎の一覧を需《もと》めた。丹泉の俗物でないことを知って交《まじわ》っていた唐氏は喜んで引見して、そしてその需《もとめ》に応じた。丹泉はしきりに称讃してその鼎をためつすがめつ熟視し、手をもって大《おおい》さを度《はか》ったり、ふところ紙に鼎の紋様を模《うつ》したりして、こういう奇品に面した眼福《がんぷく》を喜び謝したりして帰った。そしてまた舟を出して自分の旅路に上《のぼ》ってしまった。
それから半歳《はんとし》余り経《たっ》た頃、また周丹泉が唐太常をおとずれた。そして丹泉は意気安閑として、過ぐる日の礼を述べた後、「御秘蔵のと同じような白定鼎をそれがしも手に入れました」といった。唐太常は吃驚《びっくり》した。天下一品と誇っていたものが他所《よそ》にもあったというのだからである。で、「それならばその品を視せて下さい」というと、丹泉は携えて来ていたのであるから、異議なく視せた。唐は手に取って視ると、大きさから、重さから、骨質から、釉色《ゆうしょく》の工合から、全くわが家のものと寸分|違《たが》わなかった。そこで早速自分の所有のを出して見競《みくら》べて視ると、兄弟か※[#「戀」の「心」に代えて「女」、第4水準2−5−91]生《ふたご》か、いずれをいずれとも言いかねるほど同じものであった。自分のの蓋《ふた》を丹泉の鼎に合せて見ると、しっくりと合《がっ》する。台座を合せて見ても、またそれがために造ったもののようにぴたりと合う。いよいよ驚いた太常は溜息《ためいき》を吐《つ》かぬばかりになって、「して君のこの定鼎はどういうところからの伝来である」と問うた。すると丹泉は莞爾《にっこ》と笑って、「この鼎は実は貴家から出たのでござりまする。かつて貴堂において貴鼎を拝見しました時、拙者はその大小軽重|形貌《けいぼう》精神、一切を挙げて拙者の胸中に了※[#二の字点、1−2−22]《りょうりょう》と会得しました。そこで実は倣《なら》ってこれを造りましたので、あり体《てい》に申します、貴台を欺《あざむ》くようなことは致しませぬ」といった。丹泉は元来|毎※[#二の字点、1−2−22]《つねづね》江西《こうせい》の景徳鎮《けいとくちん》へ行っては、古代の窯器の佳品の模製を良工に指図しては作らせて、そしていわゆる掘出し好きや、比較的低い銭で高い物を買おうとする慾張りや、訳も分らぬくせに金銭ずくで貴い物を得ようとする耳食者流《じしょくしゃりゅう》の目をまわさせていたもので、その製作は款紋色沢《かんもんしきたく》、すべて咄※[#二の字点、1−2−22]《とつとつ》として真に逼《せま》ったものであったのである。恐ろしい人もあったもので、明の頃に既にこういう人があったのであるから、今日でもこの人の造らせた模品が北定窯だの何だのといって何処《どこ》かの家に什襲珍蔵《じゅうしゅうちんぞう》されていぬとは限るまい。さて、周の談《はなし》を聞いて太常はまた今更に歎服した。で、「それならばこの新鼎は自分に御譲りを願う、真品と共に秘蔵して永く副品《ふくひん》としますから」というので、四十|金《きん》を贈ったということである。無論丹泉はその後また同じ品を造りはしなかったのであろう。
この談《はなし》だけでもかなり骨董好きは教えられるところがあろうが、談はまだ続くのである。それから年月を経て、万暦《まんれき》の末年頃、淮安《わいあん》に杜九如《ときゅうじょ》というものがあった。これは商人で、大身上《だいしんしょう》で、素敵な物を買出すので名を得ていた。千金を惜《おし》まずして奇玩《きがん》をこれ購《あがな》うので、董元宰《とうげんさい》の旧蔵の漢玉章《かんぎょくしょう》、劉海日《りゅうかいじつ》の旧蔵の商金鼎《しょうきんてい》なんというものも、皆杜九如の手に落ちた位である。この杜九如が唐太常の家にある定鼎の噂を聞いていて、かねがねどうかして手に入れたいものだと覗《うかが》っていた。太常の家は孫の代になって、君兪《くんゆ》というものが当主であった。君兪は名家に生れて、気位《きぐらい》も高く、かつ豪華で交際を好む人であったので、九如は大金を齎《もた》らして君兪のために寿《じゅ》を為し、是非ともどうか名高い定鼎を拝見して、生平《せいへい》の渇望を慰《い》したいと申出《もうしだ》した。君兪は金《かね》で面《つら》を撲《は》るような九如を余り好みもせず、かつ自分の家柄からして下眼に視たことででもあろう、ウン御覧に入れましょうといって半分冗談に、真鼎は深蔵したまま、彼《か》の周丹泉が倣造《ほうぞう》した副の方の贋鼎《がんてい》を出して視せた。贋鼎だって、最初真鼎の持主の凝菴が歎服した位のものではあり、まして真鼎を目にしたことはない九如であるから、贋物と悟ろうようはない、すっかりその高雅妙巧の威に撲《う》たれて終《しま》って、堪《たま》らない佳い物だと思い込んで惚《ほ》れ惚れした。そこで無理やりに千金を押付《おしつけ》て、別に二百金を中間に立って取做《とりな》してくれる人に酬《むく》い、そして贋鼎を豪奪《ごうだつ》するようにして去った。巧偸豪奪《こうゆごうだつ》という語は、宋の頃から既に数※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》見える語で、骨董好きの人※[#二の字点、1−2−22]には豪奪ということも自然と起らざるを得ぬことである。マアそれも恕《じょ》すべきこととすれば恕すべきことである。
しかし君兪の方では困ることであった。何故《なぜ》といえば持って行かれたのが真物ではないからである。君兪は最初は気位の高いところから、町人の腹ッぷくれなんぞ何だという位のことで贋物を真顔《まがお》で視せたのであるが、元来が人の悪い人でも何でもなく温厚の人なので、欺いたようになったまま済ませて置くことは出来ぬと思った。そこで門下の士を遣って、九如に告げさせた。「君が取って行ったものは実は贋鼎である。真の定鼎はまだ此方《このほう》に蔵してあるので、それは太常公の戒《いましめ》に遵《したが》って軽※[#二の字点、1−2−22]《かろがろ》しく人に示さぬことになっているから御視《おみ》せ申さなかったのである。しかるに君が既に千金を捐《す》てて贋品を有《も》っているということになると、君は知らなくても自分は心に愧《は》じぬという訳にはゆかぬではないか。どうかあの鼎を還《かえ》して下さい、千金は無論御返しするから」と理解させたのである。ところが世間に得てあるところの例で、品物を売る前には金《かね》が貴く思えて品物を手放すが、品物を手放してしまうとその物のないのが淋しくなり、それに未練が出て取返したくなるものである。杜九如の方ではテッキリそれだと思ったから、贋物だったなぞというのは口実だと考えて、約束|変改《へんがい》をしたいのが本心だと見た。そこで、「どういたしまして。あの様な贋物があるものではございますまい。仮令《たとい》贋物にしましたところで、手前の方では結構でございます、頂戴致して置きまして後悔はございません」とやり返した。「そんなにこちらの言葉を御信用がないならば、二つの鼎を列《なら》べて御覧になったらば如何《いかが》です」と一方はいったが、それでも一方は信疑|相半《あいなかば》して、「当方はどうしても頂戴して置きます」と意地張《いじば》った。そこで唐君兪は遂に真鼎を出して、贋鼎に比べて視せた。双方とも立派なものではあるが、比べて視ると、神彩霊威《しんさいれいい》、もとより真物は世間に二ツとあるべきでないところを見《あら》わした。しかし杜九如も前言の手前、如何《どう》ともしようとはいわなかった。つまり模品《もひん》だということを承知しただけに止《とど》まって、返しはしなかった。九如のその時の心の中《うち》は傍《はた》からはなかなか面白く感ぜられるが、当人に取っては随分変なものであったろう。しかしこの委曲を世間が知ろうはずはない、九如の家には千金に易《か》えた宝鼎が伝わったのである。九如は老死して、その子がこれを伝えて有《も》っていた。
王廷珸《おうていご》字《あざな》は越石《えつせき》という者があった。これは片鐙《かたあぶみ》を金八に売りつけたような性質の良くない骨董屋であった。この男が杜九如の家に大した定鼎のあることを知っていた。九如の子は放蕩ものであったので、花柳《かりゅう》の巷《ちまた》に大金を捨てて、家も段※[#二の字点、1−2−22]に悪くなった。そこへ付込《つけこ》んで廷珸は杜生《とせい》に八百金を提供して、そして「御返金にならない場合でも御宅の窯鼎《ようてい》さえ御渡し下されば」ということをいって置いた。杜生はお坊さんで、廷珸の謀《はか》った通りになり、鼎は廷珸の手に落ちてしまった。廷珸は大喜びで、天下一品、価値|万金《ばんきん》なんどと大法螺《おおぼら》を吹立《ふきた》て、かねて好事《こうず》で鳴っている徐六岳《じょりくがく》という大紳《たいしん》に売付けにかかった。徐六岳を最初から廷珸は好い鳥だと狙っていたのであろう。ところが徐はあまり廷珸が狡譎《こうきつ》なのを悪《にく》んで、横を向いてしまった。廷珸はアテがはずれて困ったが仕方がなかった。もとよりヤリクリをして、狡辛《こすから》く世を送っているものだから、嵌《は》め込む目的《あて》がない時は質《しち》に入れたり、色気の見える客が出た時は急に質受けしたり、十余年の間というものは、まるで碁《ご》を打つようなカラクリをしていたその間に、同じような族類系統の肖《に》たものをいろいろ求めて、どうかして甘《あま》い汁を啜《すす》ろうとしていた。その中《うち》に泰興《たいこう》の季因是《きいんぜ》という、相当の位地のある者が廷珸に引《ひっ》かかった。
季因是もかねて唐家の定窯鼎の事を耳にしていた。勿論見た事もなければ、詳しい談《はなし》を聞いていたのでもない。ただその名に憧れて、大した名物だということを知っていたに過ぎない。廷珸は因是の甘いお客だということを見抜いて、「これがその宝器でございまして、これこれの訳で出たものでございまする」と宜《い》い加減な伝来のいきさつを談《はな》して、一つの窯鼎を売りつけた。それも自分が杜生から得た物を売ったのならまだしもであって、贋
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