や》だって手に入る訳はありはしない。勧業債券は一枚買って千円も二千円もになる事はあっても、掘出しなんということは先以《まずもっ》てなかるべきことだ。悪性《あくしょう》の料簡だ、劣等の心得だ、そして暗愚の意図というものだ。しかるに骨董いじりをすると、骨董には必ずどれほどかの価《あたい》があり金銭観念が伴うので、知らず識《し》らずに賤《いや》しくなかった人も掘出し気になる気味のあるものである。これは骨董のイヤな箇条の一つになる。
掘出し物という言葉は元来が忌《いま》わしい言葉で、最初は土中《どちゅう》冢中《ちょうちゅう》などから掘出した物ということに違いない。悪い奴が棒一本か鍬《くわ》一|挺《ちょう》で、墓など掘って結構なものを得る、それが既ち掘出物で、怪しからぬ次第だ。伐墓《ばつぼ》という語は支那には古い言葉で、昔から無法者が貴人などの墓を掘った。今存している三略《さんりゃく》は張良《ちょうりょう》の墓を掘って彼が黄石公《こうせきこう》から頂戴したものをアップしたという伝説だが、三略はそうして世に出たものではない。全く偽物だ。しかし古い立派な人の墓を掘ることは行われた事で、明《みん》の天子の墓を悪僧が掘って種※[#二の字点、1−2−22]の貴い物を奪い、おまけに骸骨を足蹴《あしげ》にしたので罰《ばち》が当って脚疾《きゃくしつ》になり、その事遂に発覚するに至った読むさえ忌わしい談《はなし》は雑書に見えている。発掘さるるを厭《いと》って曹操《そうそう》は多くの偽塚《にせづか》を造って置いたなどということは、近頃の考証でそうではないと分明したが、王安石《おうあんせき》などさえ偽塚の伝説を信じて詩を作ったりしていたところを見ると、伐墓の事は随分めずらしいことでなかったことが思われる。支那の古俗では、身分のある死者の口中には玉を含ませて葬《ほうむ》ることもあるのだから、酷《ひど》い奴は冢中の宝物《ほうもつ》から、骸骨の口の中の玉まで引《ひっ》ぱり出して奪うことも敢《あえ》てしようとしたこともあろう。※[#「さんずい+維」、第3水準1−87−26]県《いけん》あたりとか聞いたが、今でも百姓が冬の農暇《のうか》になると、鋤鍬《すきくわ》を用意して先達を先に立てて、あちこちの古い墓を捜しまわって、いわゆる掘出し物|※[#「てへん+峠のつくり」、第3水準1−84−76]《かせ》ぎをするという噂を聞いた。虚談ではないらしい。日本でも時※[#二の字点、1−2−22]飛んでもないことをする者があって、先年西の方の某国で或る貴い塋域《えいいき》を犯した事件というのが伝えられた。聞くさえ忌わしいことだが、掘出し物という語は無論こういう事に本《もと》づいて出来た語だから、いやしくも普通人的感情を有している者の使うべきでも思うべきでもない語であり事である。それにも関わらず掘出し物根性の者が多く、蚤取《のみと》り眼《まなこ》、熊鷹目《くまたかめ》で、内心大掘出しをしたがっている。人が少し悪い代りに虫が大《おおい》に好い談《はなし》である。そういう人間が多いから商売が険悪になって、西の方で出来たイカサマ物を東の方の田舎へ埋《う》めて置いて、掘出し党に好い掘出しをしたつもりで悦ばせて、そして釣鉤《つりばり》へ引掛《ひっか》けるなどという者も出て来る。京都|出来《でき》のものを朝鮮へ埋めて置いて、掘出させた顔で、チャンと釣るなぞというケレン商売も始まるのである。もし真に掘出しをする者があれば、それは無頼溌皮《ぶらいはっぴ》の徒でなければならぬ。またその掘出物を安く買って高く売り、その間《かん》に利を得る者があれば、それは即ち営業税を払っている商売人でなければならぬ。商売人は年期を入れ資本を入れ、海千山千の苦労を積んでいるのである。毎日※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]真剣勝負をするような気になって、良い物、悪い物、二番手、三番手、いずれ結構|上※[#二の字点、1−2−22]《じょうじょう》の物は少い世の中に、一[#(ト)]眼|見損《みそこな》えば痛手を負わねばならぬ瀬に立って、いろいろさまざまあらゆる骨董相応の値ぶみを間違わず付けて、そして何がしかの口銭を得ようとするのが商売の正しい心掛《こころがけ》である。どうして油断も隙《すき》もなりはしない。波の中に舟を操っているようなものである。波瀾重畳《はらんちょうじょう》がこの商買の常である。そこへ素人《しろうと》が割込んだとて何が出来よう。今この波瀾重畳険危な骨董世界の有様を想見《そうけん》するに足りる談《はなし》をちょっと示そう。但しいずれも自分が仮設《かせつ》したのでない、出処《しゅっしょ》はあるのである。いわゆる「出《で》」は判然《はっきり》しているので、御所望ならば御明かし申して宜《よろ》しいのです。ハハハ。
これは二百年近く古い書に見えている談《はなし》である。京都は堀川《ほりかわ》に金八《きんぱち》という聞えた道具屋があった。この金八が若い時の事で、親父にも仕込まれ、自分も心の励みの功を積んだので、大分に眼が利いて来て、自分ではもう内※[#二の字点、1−2−22]《ないない》、仲間の者にもヒケは取らない、立派な一人前の男になったつもりでいる。実際また何から何までに渡って、随分に目も届けば気も働いて、もう親父から店を譲られても、取りしきって一人で遣《や》って行かれるほどになっていたのである。しかし何家《どこ》の老人《としより》も同じ事で、親父はその老成の大事取りの心から、かつはあり余る親切の気味から、まだまだ位に思っていた事であろう、依然として金八の背後《うしろ》に立って保護していた。
金八が或時|大阪《おおさか》へ下《くだ》った。その途中|深草《ふかくさ》を通ると、道に一軒の古道具屋があった。そこは商買の事で、ちょっと一[#(ト)]眼見渡すと、時代蒔絵《じだいまきえ》の結構な鐙《あぶみ》がチラリと眼についた。ハテ好い鐙だナ、と立留って視ると、如何にも時代といい、出来といい、なかなかめったにはない好いものだが、残念なことには一方しかなかった。揃っていれば、勿論こんな店にあるべきものではないはずだが、それにしても何程《いくら》というだろうと、価《あたい》を聞くと、ほんの端金《はしたがね》だった。アア、一対《いっつい》なら、おれの腕で売れば慥《たしか》に三十両にはなるものだが、片方では仕方がない、少しの金にせよ売物にならぬものを買ったってどうもならぬと、何ともいえないその鐙の好い味に心は惹《ひ》かれながら、振返っては見つつも思い捨てて買わずに大阪へと下った。いくら好い物でも商売にならぬものを買わなかったところはさすがに宜かった。ところが、それから道の程を経て、京橋辺《きょうばしへん》の道具屋に行くと、偶然といおうか天の引合せといおうか、たしかに前の鐙と同じ鐙が片方あった。ン、これが別れ別れて両方|後家《ごけ》になっていたのだナ、しめた、これを買って、深草のを買って、両方合わせれば三十両、と早くも腹の中で笑《えみ》を含んで、価を問うと片方の割合には高いことをいって、これほどの物は片方にせよ稀有《けう》のものだからと、なかなか廉《やす》くない。仕方がないから割に高いけれども、腹の中に目的があるので、先方のいい値《ね》で買って、わが家へ帰ると直《すぐ》にこの話をした、勿論親父に悦ばれるつもりであった。すると親父は悦ぶどころか大怒《おおおこ》りで、「たわけづらめ、慾に気が急《せ》いて、鐙の左右にも心を附けずに買いおったナ」と罵《ののし》られた。金八も馬鹿じゃなかった。ハッと気が付いて、「しまった。向後《きょうこう》気をつけます、御免なさいまし」と叩頭《おじぎ》したが、それから「片鐙《かたあぶみ》の金八」という渾名《あだな》を付けられたということである。これは、もとより片方しかなかった鐙を、深草で値を付けさせて置いて、捷径《ちかみち》のまわり道をして同じその鐙を京橋の他の店へ埋めて置いて金八に掘出させたのだ。心さえ急かねば謀《はか》られる訳はないが、他人にして遣《や》られぬ前にというのと、なまじ前に熟視《じゅくし》していて、テッキリ同じ物だと思った心の虚《きょ》というものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃《いっぱい》食わせられたのである。親父はさすがに老功で、後家の鐙を買合《かいあわ》せて大きい利を得る、そんな甘《うま》い事があるものではないというところに勘《かん》を付けて、直《すぐ》に右左の調べに及ばなかったナと、紙燭《ししょく》をさし出して慾心の黒闇《くらやみ》を破ったところは親父だけあったのである。勿論深草を尋ねても鐙はなくって、片鐙の浮名《うきな》だけが金八の利得になったのである。昔と今とは違うが、今だって信州と名古屋とか、東京と北京《ペキン》とかの間でこの手で謀られたなら、慾気満※[#二の字点、1−2−22]《よくけまんまん》の者は一服《いっぷく》頂戴せぬとは限るまい。片鎧の金八はちょっとおもしろい談《はなし》だ。
も一ツ古い談《はなし》をしようか、これは明末《みんまつ》の人の雑筆に出ているので、その大分に複雑で、そしてその談中に出て来る骨董好きの人※[#二の字点、1−2−22]や骨董屋の種※[#二の字点、1−2−22]の性格|風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》がおのずと現われて、かつまた高貴の品物に搦《から》む愛着や慾念の表裏が如何様《いかよう》に深刻で険危なものであるということを語っている点で甚だ面白いと感ずるのみならず、骨董というものについて一種の淡い省悟《せいご》を発せしめられるような気味があるので、自分だけかは知らぬが興味あることに覚える。談《はなし》の中に出て来る人※[#二の字点、1−2−22]には名高い人※[#二の字点、1−2−22]もあり、勿論虚構の談ではないと考えられるのである。
定窯《ていよう》といえば少し骨董好きの人なら誰でも知っている貴い陶器だ。宋《そう》の時代に定州《ていしゅう》で出来たものだから定窯というのである。詳しく言えばその中にも南定《なんてい》と北定《ほくてい》とあって、南定というのは宋が金《きん》に逐《お》われて南渡《なんと》してからのもので、勿論その前の北宋《ほくそう》の時、美術天子の徽宗《きそう》皇帝の政和宣和《せいわせんな》頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。また、新定《しんてい》というものがあるが、それは下《くだ》って元《げん》の頃に出来たもので、ほんとの定窯ではない。北定の本色は白で、白の※[#「さんずい+幼」、107−12]水《ゆうすい》の加わった工合に、何ともいえぬ面白い味が出て、さほどに大したものでなくてさえ人を引付ける。
ところが、ここに一つの定窯の宝鼎《ほうてい》があった。それは鼎《かなえ》のことであるからけだし当時宮庭へでも納めたものであったろう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であった。はじめ明の成化弘治《せいかこうじ》の頃、朱陽《しゅよう》の孫氏《そんし》が曲水山房《きょくすいさんぼう》に蔵していた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯《そんしちほう》とつづき合《あい》で、七峯は当時の名士であった楊文襄《ようぶんじょう》、文太史《ぶんたいし》、祝京兆《しゅくけいちょう》、唐解元《とうかいげん》、李西涯《りせいがい》等と朋友《ともだち》で、七峯のいたところの南山《なんざん》で、正徳《せいとく》十五年七峯が蘭亭《らんてい》の古《いにしえ》のように修禊《しゅうけい》の会をした時は、唐六如《とうりくじょ》が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だったばっかりでなかったのである。そこでその定窯の鼎の台座には、友人だった李西涯が篆書《てんしょ》で銘《めい》を書いて、鐫《え》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであったろう。そういうスバらしい鼎だ
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