鼎にせよ周丹泉の立派な模品であるから宜いが、似ても似つかぬ物で、しかも形さえ異《ことな》っている方鼎《ほうてい》であった。しかし季因是はまるで知らなかったのだから、廷珸の言に瞞着《まんちゃく》されて、大名物を得る悦びに五百金という高慢税を払って、大ニコニコでいた。
 しかるに毘陵《びりょう》の趙再思《ちょうさいし》という者が、偶然泰興を過ぎたので、知合《しりあい》であったから季因是の家をおとずれた。毘陵は即ち唐家のあるところの地で、同じ毘陵の者であるから、趙再思も唐家に遊んだこともあって、彼《か》の大名物の定鼎を見たこともあったのである。その毘陵の人が来たので、季因是は大天狗《おおてんぐ》で、「近ごろ大した物を手に入れましたが、それは乃《すなわ》ち唐氏の旧蔵の名物で、わざとにも御評鑒《ごひょうかん》を得たいと思っておりましたところを、丁度《ちょうど》御光来を得ましたのは誠に仕合せで」という談《はなし》だ。趙再思はただハイハイといっていると、季は重ねて、「唐家の定窯の方鼎は、君もかつて御覧になったことが御有《おあ》りですか」といった。そこで趙は堪《こら》えかねて笑い出して、「何と仰《おっし》あります、唐氏の定鼎は方鼎ではございませぬ、円鼎《えんてい》で、足は三つで、方鼎と仰《おっし》あるが、それは何で」と答えた。季因是はこれを聴くと怫然《ふつぜん》として奥へ入ってしまって久しく出て来なかった。趙再思は仕方なしに俟《ま》っていると、暮方《くれがた》になって漸《ようや》く季は出て来て、余怒《よど》なお色にあるばかりで、「自分に方鼎を売付けた王廷珸という奴めは人を馬鹿にした憎い奴、南科《なんか》の屈静源《くつせいげん》は自分が取立てたのですから、今書面を静源に遣《つか》わしました。静源は自分のためにこの一埒《いちらつ》を明けてくれましょう」ということであった。果して屈静源は有司《ゆうし》に属して追理《ついり》しようとしたから、王廷珸は大しくじりで、一目散に姿を匿《かく》してしまって、人をたのんで詫《わび》を入れ、別に偽物などを贈って、やっと牢獄《ろうや》へ打込まれるのを免《まぬか》れた。
 談《はなし》はこれだけで済んでも、かなり可笑味《おかしみ》もあり憎味もあって沢山なのであるが、まだ続くからいよいよ変なものだ。廷珸の知合に黄※[#二の字点、1−2−22]石《こうこうせき》、名は正賓《せいひん》というものがあった。廷珸と同じ徽州《きしゅう》のもので、親類つづきだなどいっていたが、この男は※[#「てへん+晉」、第3水準1−84−87]紳《しんしん》の間にも遊び、少しは鼎彝《ていい》書画の類をも蓄え、また少しは眼もあって、本業というのではないが、半黒人《はんくろうと》で売ったり買ったりもしようという男だ。こういう男は随分世間にもあるもので、雅《が》のようで俗で、俗のようで物好《ものずき》でもあって、愚のようで怜悧《りこう》で、怜悧のようで畢竟《ひっきょう》は愚のようでもある。不才の才子である。この正賓はいつも廷珸と互《たがい》に所有の骨董を取易《とりか》えごとをしたり、売買《うりかい》の世話をしたりさせたりして、そして面白がっていた。この男が自分の倪雲林《げいうんりん》の山水《さんすい》一|幅《ぷく》、すばらしい上出来なのを廷珸に託して売ってもらおうとしていた。価は百二十金で、ちょっとはないほどのものだった。で、廷珸の手へ託しては置いたが、金高《かねだか》ものでもあり、口が遠くて長くなる間に、どんな事が起らぬとも限らぬと思ったので、そこでなかなかウッカリしておらぬ男なので、その幅の知れないところへ予《あらか》じめ自分の花押《かおう》を記して置いて、勿論廷珸にもその事は秘しておったのである。廷珸はその雲林を見ると素敵に好いので、欲しくなって堪《たま》らなかった。で、上手《じょうず》な贋筆かきに頼んで、すっかりその通りの模本《もほん》をこしらえさせた。正賓が取返しに来た時、米元章流《べいげんしょうりゅう》の巧偸をやらかして、※[#「暮」に「日」に代えて「手」、第3水準1−84−88]本《もほん》の方を渡して知らん顔をきめようというのであった。ところが先方にも荒神様《こうじんさま》が付いていない訳ではなくて、チャント隠し印《じるし》のあることには気が付かなかったのである。こういうイキサツだから何時《いつ》まで経《た》っても売れない。そこで正賓は召使の男を遣《や》って、雲林を取返して来いといい付けた。隠し印のことは無論男に呑込ませたのである。この男の王仏元《おうぶつげん》というのも、平常《いつも》主人らの五分《ごぶ》もすかさないところを見聞《みきき》して知っているので、なかなか賢くなっている奴だった。で、仏元は廷珸のところへ往って、雲林を返して下さいというと、廷珸は承知して一幅を返した。一幅は何も彼《か》も異《ことな》ってはいなかった。しかし仏元は隠しじるしのあり処《どころ》についてその有無を査《しら》べた。不思議や主人の花押は影も形もなかった。ないはずである、廷珸が今渡したものは正《まさ》しく※[#「暮」に「日」に代えて「手」、第3水準1−84−88]品なのであるもの。
 仏元はさてこそと腹の中でニヤリと笑った。ところでこの男がまた真剣|白刃取《しらはど》りを奉書《ほうしょ》の紙一枚で遣付《やりつ》けようという男だったから、これは怪しからん、模本贋物を御渡しになるとは、と真正面からこちらの理屈の木刀を揮《ふる》って先方の毒悪の真剣と切結ぶような不利なことをする者ではなかった。何でもない顔をして模本の雲林を受取った。敵の真剣を受留めはしないで、澄まして体《たい》を交《か》わして危気《あぶなげ》のないところに身を置いたのである。そしてこういうことを言った。「主人はただ私《わたくし》に画を頂戴して参れとばかりではなく、こちらの定窯鼎をお預かり致してまいれ、御直段《おねだん》の事はいずれ御相談致しますということで」といった。定鼎の売れ口がありそうな談《はなし》である。そこで廷珸は悦んで例の鼎を出して仏元に渡した。廷珸は仏元に、より長い真剣を渡して終《しま》ったのである。
 そこへ正賓は遣《や》って来た。そして画を検査してから、「售《う》れないなら售れないで、原物を返してくれるべきに、狡《こす》いことをしては困る」というと、「飛んでもない、正しくこれは原物で」と廷珸はいい張る。「イヤ、そうは脱けさせない。自分は隠しじるしをして置いた、それが今|何処《どこ》にある。ソンナ甘《あま》い手を食わせられる自分じゃない」という。「そりゃいい掛《がか》りというもので、原物を返せば論はないはずだ」という。双方負けず劣らず遣合《やりあ》って、チャンチャンバラと闘ったが、仏元は左右の指を鼎の耳へかけて、この鼎を還すまじいさまをしていた。論に勝っても鼎を取られては詰らぬと気のついた廷珸は、スキを見て鼎を奪取《うばいと》ろうとしたが、耳をしっかり持っていたのだったから、巧《うま》くは奪えなかった。耳は折れる、鼎は地に墜《お》ちる。カチャンという音一ツで、千万金にもと思っていたものは粉砕してしまった。ハッと思うと憤恨一時に爆裂した廷珸は、夢中になって当面の敵の正賓にウンと頭撞《ずつ》きを食わせた。正賓は肋《あばら》を傷《きずつ》けられて卒倒し、一場《いちじょう》は無茶苦茶になった。
 元来正賓は近年逆境におり、かつまた不如意《ふにょい》で、惜しい雲林さえ放そうとしていた位のところへ、廷珸の侮《あなど》りに遭い、物は取上げられ、肋は傷けられたので、鬱悶《うつもん》苦痛一時に逼《せま》り、越夕《えっせき》して終《つい》に死んでしまった。廷珸も人命|沙汰《ざた》になったので土地にはいられないから、出発して跡を杭州《こうしゅう》にくらました。周丹泉の造った模品はこれで土に返った訳である。
 談《はなし》はもうこれで沢山であるのに、まだ続くから罪が深い。廷珸が前に定窯の鼎類数種を蒐《あつ》めた中に、なお唐氏旧蔵の定鼎と号して大名物を以て人を欺《あざむ》くべきものがあった。廷珸は杭州に逃げたところ、当時|※[#「さんずい+路」、第3水準1−87−11]王《ろおう》が杭州に寓《ぐう》しておられた。廷珸は※[#「さんずい+路」、第3水準1−87−11]王の承奉兪啓雲《しょうほうゆけいうん》という者に遇って、贋鼎を出して示して、これが唐氏旧蔵の大名物と誇耀《こよう》した。そして※[#「さんずい+路」、第3水準1−87−11]王に手引《てびき》してもらって、手取り千六百金、四百金を承奉に贈ることにして、二千金で売付けた。時はもう明末にかかり、万事|不束《ふつつか》で、人も満足なものもなかったので、一厨役《いちちゅうやく》の少し麁鹵《そろ》なものにその鼎を蔵した管龠《かんやく》を扱わせたので、その男があやまってその贋鼎の一足《ひとあし》を折ってしまった。で、その男は罪を懼《おそ》れて身を投げて死んで終《しま》った。その頃大兵が杭州に入り来たって、※[#「さんずい+路」、第3水準1−87−11]王は奔《はし》り、承奉は廃鼎《はいてい》を銭塘江《せんとうこう》に沈めてしまったという。
 これでこの一条の談《はなし》は終りであるが、骨董というものに附随して随分種※[#二の字点、1−2−22]の現象が見られることは、ひとりこの談のみの事ではあるまい。骨董は好い、骨董はおもしろい。ただし願わくはスラリと大枚《たいまい》な高慢税を出して楽《たのし》みたい。廷珸や正賓のような者に誰しも関係したくは思うまい。それからまた、いくら詰らぬ人にだって、鼎の足を折ったために身を投げてもらったりなぞしたくはあるまい。
[#地から1字上げ](大正十五年十一月)



底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
   1990(平成2)年11月16日第1刷発行
   1994(平成6)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「露伴全集 第六巻」岩波書店
   1953(昭和28)年12月刊
入力:土屋隆
校正:オーシャンズ3
2008年1月15日作成
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