一つの定窯の宝鼎《ほうてい》があった。それは鼎《かなえ》のことであるからけだし当時宮庭へでも納めたものであったろう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であった。はじめ明の成化弘治《せいかこうじ》の頃、朱陽《しゅよう》の孫氏《そんし》が曲水山房《きょくすいさんぼう》に蔵していた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯《そんしちほう》とつづき合《あい》で、七峯は当時の名士であった楊文襄《ようぶんじょう》、文太史《ぶんたいし》、祝京兆《しゅくけいちょう》、唐解元《とうかいげん》、李西涯《りせいがい》等と朋友《ともだち》で、七峯のいたところの南山《なんざん》で、正徳《せいとく》十五年七峯が蘭亭《らんてい》の古《いにしえ》のように修禊《しゅうけい》の会をした時は、唐六如《とうりくじょ》が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だったばっかりでなかったのである。そこでその定窯の鼎の台座には、友人だった李西涯が篆書《てんしょ》で銘《めい》を書いて、鐫《え》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであったろう。そういうスバらしい鼎だ
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