とか、書なら書で儒者の誰※[#二の字点、1−2−22]とか、蒔絵《まきえ》なら蒔絵で極《ごく》古いところとか近いところとか、というように心を寄せ手を掛ける。この「筋の通った蒐集研究をする」これは最も賢明で本当の仕方であるから、相応に月謝さえ払えば立派に眼も明き味も解って来て、間違《まちがい》なく、最も無難に清娯《せいご》を得る訳だから論はない。しかるにまた大多数の人※[#二の字点、1−2−22]はそれでは律義《りちぎ》過ぎて面白くないから、コケが東西南北の水転《みずてん》にあたるように、雪舟《せっしゅう》くさいものにも眼を遣《や》れば応挙《おうきょ》くさいものにも手を出す、歌麿《うたまろ》がかったものにも色気を出す、大雅堂《たいがどう》や竹田《ちくでん》ばたけにも鍬《くわ》を入れたがる、運が好ければ韓幹《かんかん》の馬でも百円位で買おう気でおり、支那の笑話《しょうわ》にある通り、杜荀鶴《とじゅんかく》の鶴の画なんという変なものをも買わぬと限らぬ勢《いきおい》で、それでも画のみならまだしもの事、彫刻でも漆器でも陶器でも武器でも茶器でもというように気が多い。そういう人※[#二の字点、1−2
前へ 次へ
全49ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング