ないからだ。
 骨董はどう考えてもいろいろの意味で悪いものではない。特《こと》に年寄になったり金持になったりしたものには、骨董でも捻《ひね》くってもらっているのが何より好い。不老若返り薬などを年寄に用いてもらって、若い者の邪魔をさせるなどは悪い洒落《しゃれ》だ。老人には老人相応のオモチャを当《あて》がって、落《おち》ついて隅の方で高慢の顔をさせて置く方が、天下泰平の御祈祷《ごきとう》になる。小供はセルロイドの玩器《おもちゃ》を持つ、年寄は楽焼《らくやき》の玩器《おもちゃ》を持つ、と小学|読本《とくほん》に書いて置いても差支《さしつかえ》ない位だ。また金持はとかくに金が余って気の毒な運命に囚《とら》えられてるものだから、六朝仏《りくちょうぶつ》印度仏《いんどぶつ》ぐらいでは済度《とくど》されない故、夏殷周《かいんしゅう》の頃の大古物、妲己《だつき》の金盥《かなだらい》に狐の毛が三本着いているのだの、伊尹《いいん》の使った料理鍋、禹《う》の穿《は》いたカナカンジキだのというようなものを素敵に高く買わすべきで、これはこれ有無相通、世間の不公平を除き、社会主義者だの無産者だのというむずかしい神※[#二の字点、1−2−22]の神慮をすずしめ奉《たてまつ》る御神楽《おかぐら》の一座にも相成る訳だ。
 が、それはそれでよいとして、年寄でもなく、二才《にさい》でもなく、金持でもなく、文無しでもない、いわゆる中年中産階級の者でも骨董を好かぬとは限らない。こういう連中は全く盲人《めくら》というでもなく、さればといって高慢税を進んで沢山納め奉るほどの金も意気もないので、得《え》て中有《ちゅうう》に迷った亡者のようになる。ところが書画骨董に心を寄せたり手を出したりする者の大多数はこの連中で、仕方がないからこの連中の内で聡明でもあり善良でもある輩《やから》は、高級骨董の素晴らしい物に手を掛けたくない事はないが、それは雲に梯《かけはし》の及ばぬ恋路みたようなものだから、やはり自分らの身分相応の中流どころの骨董で楽しむことになる。一番聡明善良なるものは分科的専門的にして、自分の関係しようとする範囲をなるべく狭小にし、そして歳月をその中で楽しむ。いわゆる一[#(ト)]筋を通し、一[#(ト)]流れを守って、画《え》なら画で何派の誰を中心にしたところとか、陶器なら陶器で何窯《なにがま》の何時《いつ》頃
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