とか、書なら書で儒者の誰※[#二の字点、1−2−22]とか、蒔絵《まきえ》なら蒔絵で極《ごく》古いところとか近いところとか、というように心を寄せ手を掛ける。この「筋の通った蒐集研究をする」これは最も賢明で本当の仕方であるから、相応に月謝さえ払えば立派に眼も明き味も解って来て、間違《まちがい》なく、最も無難に清娯《せいご》を得る訳だから論はない。しかるにまた大多数の人※[#二の字点、1−2−22]はそれでは律義《りちぎ》過ぎて面白くないから、コケが東西南北の水転《みずてん》にあたるように、雪舟《せっしゅう》くさいものにも眼を遣《や》れば応挙《おうきょ》くさいものにも手を出す、歌麿《うたまろ》がかったものにも色気を出す、大雅堂《たいがどう》や竹田《ちくでん》ばたけにも鍬《くわ》を入れたがる、運が好ければ韓幹《かんかん》の馬でも百円位で買おう気でおり、支那の笑話《しょうわ》にある通り、杜荀鶴《とじゅんかく》の鶴の画なんという変なものをも買わぬと限らぬ勢《いきおい》で、それでも画のみならまだしもの事、彫刻でも漆器でも陶器でも武器でも茶器でもというように気が多い。そういう人※[#二の字点、1−2−22]は甚《はなは》だ少くないが、時に気の毒な目を見るのもそういう人※[#二の字点、1−2−22]で、悪気はなくとも少し慾気《よくけ》が手伝っていると、百貨店で品物を買ったような訳ではない目にも自業自得で出会うのである。中には些《ちと》性《しょう》が悪くて、骨董商の鼻毛を抜いていわゆる掘出物《ほりだしもの》をする気になっている者もある。骨董商はちょっと取片付《とりかたづ》けて澄ましているものだが、それだって何も慈善事業で店を開いている訳ではない、その道に年期を入れて資本を入れて、それで妻子を過《すご》しているのだから、三十円のものは口銭《こうせん》や経費に二十円|遣《や》って五十円で買うつもりでいれば何の間違《まちがい》はないものを、五十円のものを三十円で買う気になっていては世の中がスラリとは行かない。五円のものを三十円で売附けられるようなことも、罷《まか》り間違えば出来ることになる道理だ。それを弥《いや》が上にもアコギな掘出し気《ぎ》で、三円五十銭で乾山《けんざん》の皿を買おうなんぞという図※[#二の字点、1−2−22]《ずうずう》しい料簡を腹の底に持っていたとて、何の、乾也《けん
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