っていたのである。骨董が黄金何枚何十枚、一郡一城、あるいは血みどろの悪戦の功労とも匹敵するようなことになった。換言すれば骨董は一種の不換紙幣のようなものになったので、そしてその不換紙幣の発行者は利休という訳になったようなものである。西郷《さいごう》が出したり大隈《おおくま》が出したりした不換紙幣は直《じき》に価値が低くなったが、利休の出した不換紙幣はその後何百年を経てなおその価値を保っている。さすがは秀吉はエライ人間をつかまえて不換紙幣発行者としたもので、そして利休はまたホントに無慾でしかも煉金術を真に能《よ》くした神仙であったのである。不換紙幣は当時どれほど世の中の調節に与《あずか》って霊力があったか知れぬ。その利を受けた者は勿論利休ではない、秀吉であった。秀吉は恐ろしい男で、神仙を駆使してわが用を為さしめたのである。さて祭りが済めば芻狗《すうく》は不要だ。よい加減に不換紙幣が流通した時、不換紙幣発行は打切られ、利休は詰らぬ理屈を付けられて殺されて終《しま》った。後から後からと際限なく発行されるのではないから、不換紙幣は長くその価値を保った。各大名や有福町人の蔵の中に収まりかえっていた。考えて見れば黄金や宝石だって人生に取って真価値があるのではない、やはり一種の手形じゃまでなのであろう。徹底して観ずれば骨董も黄金も宝石も兌換券も不換紙幣も似たり寄ったりで、承知されて通用すれば樹の葉が小判でも不思議はないのだ。骨董の佳《よ》い物おもしろい物の方が大判やダイヤモンドよりも佳くもあり面白くもあるから、金貨や兌換券で高慢税をウンと払って、釉《くすり》の工合の妙味言うべからざる茶碗なり茶入《ちゃいれ》なり、何によらず見処《みどころ》のある骨董を、好きならば手にして楽しむ方が、暢達《ちょうたつ》した料簡というものだ。理屈に沈む秋のさびしさ、よりも、理屈をぬけて春のおもしろ、の方が好さそうな訳だ。関西の大富豪で茶道好きだった人が、死ぬ間際に数万金で一茶器を手に入れて、幾時間を楽《たのし》んで死んでしまった。一時間が何千円に当った訳だ、なぞと譏《そし》る者があるが、それは譏る方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能のない、理屈をぬけた楽しい天地のあることを知らぬからの論だ。趣味の前には百万両だって煙草《たばこ》の煙よりも果敢《はかな》いものにしか思えぬことを会得し
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