食《ゆうめし》の膳に対《むか》うとそのまま云いわけばかりに箸をつけて茶さえゆるりとは飲まず、お吉、十兵衛めがところにちょっと行て来る、行違いになって不在《るす》へ来《こ》ば待たしておけ、と云う言葉さえとげとげしく怒りを含んで立ち出でかかれば、気にはかかれど何とせん方もなく、女房は送って出したる後にて、ただ溜息《ためいき》をするのみなり。

     其十三

 渋って開《あ》きかぬる雨戸にひとしお源太は癇癪の火の手を亢《たかぶ》らせつつ、力まかせにがちがち引き退《の》け、十兵衛|家《うち》にか、と云いさまにつとはいれば、声色《こわいろ》知ったるお浪《なみ》早くもそれと悟って、恩あるその人の敵《むこう》に今は立ち居る十兵衛に連れ添える身の面《おもて》を対《あわ》すこと辛く、女気の繊弱《かよわ》くも胸をどきつかせながら、まあ親方様、とただ一言我知らず云い出したるぎり挨拶《あいさつ》さえどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]して急には二の句の出ざるうち、煤《すす》けし紙に針の孔《あな》、油染みなんど多き行燈《あんどん》の小蔭《こかげ》に悄然《しょんぼり》と坐り込める十兵衛を見かけて源太にずっと通られ、あわてて火鉢の前に請《しょう》ずる機転の遅鈍《まずき》も、正直ばかりで世態《よ》を知悉《のみこ》まぬ姿なるべし。
 十兵衛は不束《ふつつか》に一礼して重げに口を開き、明日の朝|参上《あが》ろうとおもうておりました、といえばじろりとその顔下眼に睨《にら》み、わざと泰然《おちつき》たる源太、おお、そういう其方《そち》のつもりであったか、こっちは例の気短ゆえ今しがたまで待っていたが、いつになって汝《そなた》の来るか知れたことではないとして出かけて来ただけ馬鹿であったか、ハハハ、しかし十兵衛、汝は今日の上人様のあのお言葉をなんと聞いたか、両人《ふたり》でよくよく相談して来よと云われた揚句に長者の二人の児のお話し、それでわざわざ相談に来たが汝も大抵分別はもう定《き》めて居るであろう、我《おれ》も随分虫持ちだが悟って見ればあの譬諭《たとえ》の通り、尖《とが》りあうのは互いにつまらぬこと、まんざら敵《かたき》同士でもないに身勝手ばかりは我も云わぬ、つまりは和熟した決定《けつじょう》のところが欲しいゆえに、我欲は充分折って摧《くだ》いて思案を凝らして来たものの、なお汝の了見も腹蔵のないところを聞きたく、その上にまたどうともしようと、我も男児《おとこ》なりゃ汚《きたな》い謀計《たくみ》を腹には持たぬ、真実《ほんと》にこうおもうて来たわ、と言葉をしばしとどめて十兵衛が顔を見るに、俯伏《うつむ》いたままただはい、はいと答うるのみにて、乱鬢《らんびん》の中《うち》に五六本の白髪《しらが》が瞬《またた》く燈火《あかり》の光を受けてちらりちらりと見ゆるばかり。お浪ははや寝し猪《い》の助《すけ》が枕の方につい坐って、呼吸《いき》さえせぬようこれもまた静まりかえり居る淋《さび》しさ。かえって遠くに売りあるく鍋焼|饂飩《うどん》の呼び声の、幽《かす》かに外方《そと》より家《や》の中《うち》に浸みこみ来たるほどなりけり。
 源太はいよいよ気を静め、語気なだらかに説き出《いだ》すは、まあ遠慮もなく外見《みえ》もつくらず我の方から打ち明けようが、なんと十兵衛こうしてはくれぬか、せっかく汝も望みをかけ天晴《あっぱ》れ名誉の仕事をして持ったる腕の光をあらわし、欲徳ではない職人の本望を見事に遂げて、末代に十兵衛という男が意匠《おもいつき》ぶり細工ぶりこれ視《み》て知れと残そうつもりであろうが、察しもつこう我とてもそれは同じこと、さらにあるべき普請ではなし、取り外《はぐ》っては一生にまた出逢うことはおぼつかないなれば、源太は源太で我が意匠ぶり細工ぶりを是非|遺《のこ》したいは、理屈を自分のためにつけて云えば我はまあ感応寺の出入り、汝はなんの縁《ゆかり》もないなり、我は先口、汝は後なり、我は頼まれて設計《つもり》までしたに汝は頼まれはせず、他《ひと》の口から云うたらばまた我は受け負うても相応、汝が身柄《がら》では不相応と誰しも難をするであろう、だとて我が今理屈を味方にするでもない、世間を味方にするでもない、汝が手腕《うで》のありながら不幸せで居るというも知って居る、汝が平素《ふだん》薄命《ふしあわせ》を口へこそ出さね、腹の底ではどのくらい泣いて居るというも知って居る、我を汝の身にしては堪忍《がまん》のできぬほど悲しい一生というも知って居る、それゆえにこそ去年|一昨年《おととし》なんにもならぬことではあるが、まあできるだけの世話はしたつもり、しかし恩に被《き》せるとおもうてくれるな、上人様だとて汝の清潔《きれい》な腹の中をお洞察《みとおし》になったればこそ、汝の薄命《ふしあわせ》を気の毒とおもわれたればこそ今日のようなお諭し、我も汝が欲かなんぞで対岸《むこう》にまわる奴ならば、我《ひと》の仕事に邪魔を入れる猪口才《ちょこざい》な死節野郎《しにぶしやろう》と一釿《ひとちょうな》に脳天|打《ぶ》っ欠かずにはおかぬが、つくづく汝の身を察すればいっそ仕事もくれたいような気のするほど、というて我《おれ》も欲は捨て断《き》れぬ、仕事は真実どうあってもしたいわ、そこで十兵衛、聞いてももらいにくく云うても退《の》けにくい相談じゃが、まあこうじゃ、堪忍して承知してくれ、五重塔は二人で建ちょう、我を主にして汝不足でもあろうが副《そえ》になって力を仮してはくれまいか、不足ではあろうが、まあ厭でもあろうが源太が頼む、聴いてはくれまいか、頼む頼む、頼むのじゃ、黙って居るのは聴いてくれぬか、お浪さんも我《わし》の云うことのわかったならどうぞ口を副《そ》えて聴いてもらっては下さらぬか、と脆《もろ》くも涙になりいる女房にまで頼めば、お、お、親方様、ええありがとうござりまする、どこにこのような御親切の相談かけて下さる方のまたあろうか、なぜお礼をば云われぬか、と左の袖は露時雨《つゆしぐれ》、涙に重くなしながら、夫の膝を右の手で揺り動かしつ掻《か》き口説《くど》けど、先刻《さき》より無言の仏となりし十兵衛何ともなお言わず、再度《ふたたび》三度かきくどけど黙黙《むっくり》として[#「黙黙《むっくり》として」はママ]なお言わざりしが、やがて垂《た》れたる首《こうべ》を抬《もた》げ、どうも十兵衛それは厭でござりまする、と無愛想に放つ一言、吐胸《とむね》をついて驚く女房。なんと、と一声|烈《はげ》しく鋭く、頸首《くびぼね》反らす一二寸、眼に角たててのっそりをまっ向よりして瞰下《みおろ》す源太。

     其十四

 人情の花も失《な》くさず義理の幹もしっかり立てて、普通《なみ》のものにはできざるべき親切の相談を、一方ならぬ実意《じつ》のあればこそ源太のかけてくれしに、いかに伐《き》って抛《な》げ出したような性質《もちまえ》がさする返答なればとて、十兵衛厭でござりまするとはあまりなる挨拶《あいさつ》、他《ひと》の情愛《なさけ》のまるでわからぬ土人形でもこうは云うまじきを、さりとては恨めしいほど没義道《もぎどう》な、口惜しいほど無分別な、どうすればそのように無茶なる夫の了見と、お浪は呆《あき》れもし驚きもしわが身の急に絞木《しめぎ》にかけて絞めらるるごとき心地のして、思わず知らず夫にすり寄り、それはまあなんということ、親方様があれほどにあなたこなたのためを計って、見るかげもないこの方連れ、云わば一[#(ト)]足に蹴落しておしまいなさるることもなさらばできるこの方連れに、大抵ではないお情をかけて下され、御自分一人でなさりたい仕事をも分けてやろう半口乗せてくりょうと、身に浸みるほどありがたい御親切の御相談、しかもお招喚《よびつけ》にでもなってでのことか、坐蒲団《ざぶとん》さえあげることのならぬこのようなところへわざわざおいでになってのお話し、それを無にしてもったいない、十兵衛厭でござりまするとは冥利《みょうり》の尽きた我儘《わがまま》勝手、親方様の御親切の分らぬはずはなかろうに胴欲なも無遠慮なも大方|程度《ほどあい》のあったもの、これこの妾《わたし》の今着て居るのも去年の冬の取りつきに袷姿《あわせすがた》の寒げなを気の毒がられてお吉様の、縫直《なお》して着よと下されたのとは汝《おまえ》の眼には暎《うつ》らぬか、一方ならぬ御恩を受けていながら親方様の対岸《むこう》へ廻るさえあるに、それを小癪《こしゃく》なとも恩知らずなともおっしゃらず、どこまでも弱い者を愛護《かぼ》うて下さるお仁慈《なさけ》深い御分別にも頼《よ》り縋《すが》らいで一概に厭じゃとは、たとえば真底から厭にせよ記臆《ものおぼえ》のある人間《ひと》の口から出せた言葉でござりまするか、親方様の手前お吉様の所思《おもわく》をもよくとっくりと考えて見て下され、妾はもはやこれから先どの顔さげてあつかましくお吉様のお眼にかかることのなるものぞ、親方様はお胸の広うて、ああ十兵衛夫婦はわけの分らぬ愚か者なりゃ是も非もないと、そのまま何とも思《おぼ》しめされずただ打ち捨てて下さるか知らねど、世間は汝を何と云おう、恩知らずめ義理知らずめ、人情|解《げ》せぬ畜生め、あれ奴《め》は犬じゃ烏じゃと万人の指甲《つめ》に弾《はじ》かれものとなるは必定《ひつじょう》、犬や烏と身をなして仕事をしたとて何の功名《てがら》、欲をかわくな齷齪《あくせく》するなと常々妾に諭《さと》された自分の言葉に対しても恥かしゅうはおもわれぬか、どうぞ柔順《すなお》に親方様の御異見について下さりませ、天に聳《そび》ゆる生雲塔《しょううんとう》は誰々二人で作ったと、親方様ともろともに肩を並べて世に称《うた》わるれば、汝の苦労の甲斐も立ち親方様のありがたいお芳志《こころざし》も知るる道理、妾もどのように嬉しかろか喜ばしかろか、もしそうなれば不足というは薬にしたくもないはずなるに、汝は天魔に魅《みい》られてそれをまだまだ不足じゃとおもわるるのか、ああ情ない、妾が云わずと知れている汝自身の身のほどを、身の分際を忘れてか、と泣き声になり掻き口説く女房の頭《こうべ》は低く垂れて、髷《まげ》にさされし縫針の孔《めど》が啣《くわ》えし一条《ひとすじ》の糸ゆらゆらと振うにも、千々に砕くる心の態《さま》の知られていとどいじらしきに、眼を瞑《ふさ》ぎいし十兵衛は、その時例の濁声《だみごえ》出し、喧《やかま》しいわお浪、黙っていよ、我《おれ》の話しの邪魔になる、親方様聞いて下され。

     其十五

 思いの中《うち》に激すればや、じたじたと慄《ふる》い出す膝《ひざ》の頭《かしら》をしっかと寄せ合わせて、その上に両手《もろて》突っ張り、身を固くして十兵衛は、情ない親方様、二人でしょうとは情ない、十兵衛に半分仕事を譲って下さりょうとはお慈悲のようで情ない、厭でござります、厭でござります、塔の建てたいは山々でももう十兵衛は断念《あきら》めておりまする、お上人様のお諭しを聞いてからの帰り道すっぱり思いあきらめました、身のほどにもない考えを持ったが間違い、ああ私が馬鹿でござりました、のっそりはどこまでものっそりで馬鹿にさえなって居ればそれでよいわけ、溝板《どぶいた》でもたたいて一生を終りましょう、親方様|堪忍《かに》して下され我《わたし》が悪い、塔を建ちょうとはもう申しませぬ、見ず知らずの他の人ではなし御恩になった親方様の、一人で立派に建てらるるをよそながら視て喜びましょう、と元気なげに云い出づるを走り気の源太ゆるりとは聴いていず、ずいと身を進めて、馬鹿を云え十兵衛、あまり道理が分らな過ぎる、上人様のお諭しは汝《きさま》一人に聴けというてなされたではない我《おれ》が耳にも入れられたは、汝の腹でも聞いたらば我の胸でも受け取った、汝一人に重石《おもし》を背負《しょ》ってそう沈まれてしもうては源太が男になれるかやい、つまらぬ思案に身を退《ひ》いて馬鹿にさえなって居ればよいとは、分別が摯実《くすみ》過ぎて至当《もっとも》とは云われまいぞ、おおそうならば我がす
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