応寺に行かるる心か、強過ぎる、たとい行ったとて働きはなるまじ、行かいでも誰が咎《とが》みょう、行かで済まぬと思わるるなら妾がちょと一[#(ト)]走り、お上人様のお目にかかって三日四日の養生を直々《じきじき》に願うて来ましょ、お慈悲深いお上人様の御承知なされぬ気遣いない、かならず大切《だいじ》にせい軽挙《かるはずみ》すなとおっしゃるは知れたこと、さあ此衣《これ》を着て家に引っ籠《こ》み、せめて疵口《くち》のすっかり密着《くっつ》くまで沈静《おちつ》いていて下され、とひたすらとどめ宥《なだ》め慰め、脱ぎしをとってまた被《き》すれば、よけいな世話を焼かずとよし、腹掛け着せい、これは要らぬ、と利く右の手にて撥《は》ね退くる。まあそう云わずと家にいて、とまた打ち被する、撥ね退くる、男は意気地女は情《じょう》、言葉あらそい果てしなければさすがにのっそり少し怒って、わけの分らぬ女の分で邪魔立てするか忌々《いまいま》しい奴、よしよし頼まぬ一人で着る、高の知れたる蚯蚓膨《みみずば》れに一日なりとも仕事を休んで職人どもの上《かみ》に立てるか、汝《うぬ》はちっとも知るまいがの、この十兵衛はおろかしくて馬鹿と常々云わるる身ゆえに職人どもが軽う見て、眼の前ではわが指揮《さしず》に従い働くようなれど、蔭では勝手に怠惰《なまけ》るやら譏《そし》るやらさんざんに茶にしていて、表面《うわべ》こそ粧《つくろ》え誰一人真実仕事をよくしょうという意気組持ってしてくるるものはないわ、ええ情ない、どうかして虚飾《みえ》でなしに骨を折ってもらいたい、仕事に膏《あぶら》を乗せてもらいたいと、諭《さと》せば頭は下げながら横向いて鼻で笑われ、叱れば口に謝罪《あやま》られて顔色《かおつき》に怒られ、つくづく我《が》折って下手に出ればすぐと増長さるる口惜しさ悲しさ辛さ、毎日毎日棟梁棟梁と大勢に立てられるは立派でよけれど腹の中では泣きたいようなことばかり、いっそ穴鑿《あなほ》りで引っ使われたほうが苦しゅうないと思うくらい、その中でどうかこうか此日《ここ》まで運ばして来たに今日休んでは大事の躓《つまず》き、胸が痛いから早帰りします、頭痛がするで遅くなりましたと皆《みんな》に怠惰《なまけ》られるは必定《ひつじょう》、その時自分が休んで居れば何と一言云いようなく、仕事が雨垂《あまだ》れ拍子になってできべきものも仕損《しそこな》う道理、万が一にも仕損じてはお上人様源太親方に十兵衛の顔が向けらりょうか、これ、生きても塔ができねばな、この十兵衛は死んだ同然、死んでも業《わざ》をし遂げれば汝が夫《おやじ》は生きて居るわい、二寸三寸の手斧傷《ちょうなきず》に臥《ね》て居られるか居られぬか、破傷風が怖《おそ》ろしいか仕事のできぬが怖ろしいか、よしや片腕|奪《と》られたとて一切成就の暁までは駕籠《かご》に乗っても行かではいぬ、ましてやこれしきの蚯蚓膨《みみずば》れに、と云いつつお浪が手中より奪いとったる腹掛けに、左の手を通さんとして顰《しか》むる顔、見るに女房の争えず、争いまけて傷をいたわり、ついに半天股引まで着せて出しける心の中、何とも口には云いがたかるべし。
 十兵衛よもや来はせじと思い合うたる職人ども、ちらりほらりと辰の刻ころより来て見てびっくりする途端、精出してくるる嬉しいぞ、との一言を十兵衛から受けて皆冷汗をかきけるが、これより一同《みなみな》励み勤め昨日に変る身のこなし、一をきいては三まで働き、二と云われしには四まで動けば、のっそり片腕の用を欠いてかえって多くの腕を得つ日々《にちにち》工事《しごと》捗取《はかど》り、肩疵治るころには大抵塔もできあがりぬ。

     其三十一

 時は一月の末つ方、のっそり十兵衛が辛苦経営むなしからで、感応寺生雲塔いよいよものの見事に出来上り、だんだん足場を取り除けば次第次第に露《あら》わるる一階一階また一階、五重|巍然《ぎぜん》と聳《そび》えしさま、金剛力士が魔軍を睥睨《にら》んで十六丈の姿を現じ坤軸《こんじく》動《ゆる》がす足ぶみして巌上《いわお》に突っ立ちたるごとく、天晴《あっぱ》れ立派に建ったるかな、あら快よき細工振りかな、希有《けう》じゃ未曽有《みぞう》じゃまたあるまじと為右衛門より門番までも、初手のっそりを軽《かろ》しめたることは忘れて讃歎すれば、円道はじめ一山《いっさん》の僧徒も躍《おど》りあがって歓喜《よろこ》び、これでこそ感応寺の五重塔なれ、あら嬉しや、我らが頼む師は当世に肩を比すべき人もなく、八宗九宗の碩徳《せきとく》たち虎豹鶴鷺《こひょうかくろ》と勝《す》ぐれたまえる中にも絶類抜群にて、譬《たと》えば獅子王《ししおう》孔雀王《くじゃくおう》、我らが頼むこの寺の塔も絶類抜群にて、奈良や京都はいざ知らず上野浅草芝山内、江戸にて此塔《これ》に勝《まさ》るものなし、ことさら塵土に埋もれて光も放たず終るべかりし男を拾いあげられて、心の宝珠《たま》の輝きを世に発出《いだ》されし師の美徳、困苦に撓《たゆ》まず知己に酬《むく》いてついにし遂げし十兵衛が頼もしさ、おもしろくまた美わしき奇因縁なり妙因縁なり、天のなせしか人のなせしかはたまた諸天善神の蔭《かげ》にて操りたまいしか、屋《おく》を造るに巧妙《たくみ》なりし達膩伽尊者《たにかそんじゃ》の噂はあれど世尊《せそん》在世の御時にもかく快きことありしをいまだきかねば漢土《から》にもきかず、いで落成の式あらば我|偈《げ》を作らん文を作らん、我歌をよみ詩を作《な》して頌《しょう》せん讃せん詠ぜん記せんと、おのおの互いに語り合いしは欲のみならぬ人間《ひと》の情の、やさしくもまた殊勝なるに引き替えて、測りがたきは天の心、円道為右衛門二人が計らいとしていと盛んなる落成式|執行《しゅうぎょう》の日もほぼ定まり、その日は貴賤男女の見物をゆるし貧者に剰《あま》れる金を施し、十兵衛その他を犒《ねぎ》らい賞する一方には、また伎楽《ぎがく》を奏して世に珍しき塔供養あるべきはずに支度とりどりなりし最中、夜半の鐘の音の曇って平日《つね》には似つかず耳にきたなく聞えしがそもそも、漸々《ぜんぜん》あやしき風吹き出して、眠れる児童《こども》も我知らず夜具踏み脱ぐほど時候生暖かくなるにつれ、雨戸のがたつく響き烈《はげ》しくなりまさり、闇に揉《も》まるる松柏の梢《こずえ》に天魔の号《さけ》びものすごくも、人の心の平和を奪え平和を奪え、浮世の栄華に誇れる奴らの胆《きも》を破れや睡《ねむ》りを攪《みだ》せや、愚物の胸に血の濤《なみ》打たせよ、偽物の面の紅き色|奪《と》れ、斧《おの》持てる者斧を揮《ふる》え、矛《ほこ》もてるもの矛を揮え、汝《なんじ》らが鋭《と》き剣《つるぎ》は餓《う》えたり汝ら剣に食をあたえよ、人の膏血《あぶら》はよき食なり汝ら剣にあくまで喰わせよ、あくまで人の膏膩《あぶら》を餌《か》えと、号令きびしく発するや否、猛風一陣どっと起って、斧をもつ夜叉《やしゃ》矛もてる夜叉餓えたる剣もてる夜叉、皆一斉に暴《あ》れ出しぬ。

     其三十二

 長夜の夢を覚まされて江戸四里四方の老若男女、悪風来たりと驚き騒ぎ、雨戸の横柄子《よこざる》しっかと※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》せ、辛張り棒を強く張れと家々ごとに狼狽《うろた》ゆるを、可愍《あわれ》とも見ぬ飛天夜叉王、怒号の声音《こわね》たけだけしく、汝ら人を憚《はばか》るな、汝ら人間《ひと》に憚られよ、人間は我らを軽《かろ》んじたり、久しく我らを賤《いや》しみたり、我らに捧《ささ》ぐべきはずの定めの牲《にえ》を忘れたり、這《は》う代りとして立って行く狗《いぬ》、驕奢《おごり》の塒巣《ねぐら》作れる禽《とり》、尻尾なき猿、物言う蛇、露|誠実《まこと》なき狐の子、汚穢《けがれ》を知らざる豕《いのこ》の女《め》、彼らに長く侮られてついにいつまで忍び得ん、我らを長く侮らせて彼らをいつまで誇らすべき、忍ぶべきだけ忍びたり誇らすべきだけ誇らしたり、六十四年はすでに過ぎたり、我らを縛せし機運の鉄鎖、我らを囚《とら》えし慈忍の岩窟《いわや》はわが神力にてちぎり棄《す》てたり崩潰《くずれ》さしたり、汝ら暴《あ》れよ今こそ暴れよ、何十年の恨みの毒気を彼らに返せ一時に返せ、彼らが驕慢《ほこり》の気の臭さを鉄囲山外《てついさんげ》に攫《つか》んで捨てよ、彼らの頭《こうべ》を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味のよさを彼らが胸に試みよ、惨酷《ざんこく》の矛、瞋恚《しんい》の剣の刃糞《はくそ》と彼らをなしくれよ、彼らが喉《のんど》に氷を与えて苦寒に怖れ顫《わなな》かしめよ、彼らが胆に針を与えて秘密の痛みに堪えざらしめよ、彼らが眼前《めさき》に彼らが生《な》したる多数《おおく》の奢侈《しゃし》の子孫を殺して、玩物《がんぶつ》の念を嗟歎《さたん》の灰の河に埋めよ、彼らは蚕児《かいこ》の家を奪いぬ汝ら彼らの家を奪えや、彼らは蚕児の知恵を笑いぬ汝ら彼らの知恵を讃せよ、すべて彼らの巧みとおもえる知恵を讃せよ、大とおもえる意《こころ》を讃せよ、美わしとみずからおもえる情を讃せよ、協《かな》えりとなす理を讃せよ、剛《つよ》しとなせる力を讃せよ、すべては我らの矛の餌《え》なれば、剣の餌なれば斧の餌なれば、讃して後に利器《えもの》に餌《か》い、よき餌をつくりし彼らを笑え、嬲《なぶ》らるるだけ彼らを嬲れ、急に屠《ほふ》るな嬲り殺せ、活《い》かしながらに一枚一枚皮を剥《は》ぎ取れ、肉を剥ぎとれ、彼らが心臓《しん》を鞠《まり》として蹴よ、枳棘《からたち》をもて背を鞭《う》てよ、歎息の呼吸《いき》涙の水、動悸《どうき》の血の音悲鳴の声、それらをすべて人間より取れ、残忍のほか快楽《けらく》なし、酷烈ならずば汝ら疾《と》く死ね、暴れよ進めよ、無法に住して放逸|無慚《むざん》無理無体に暴れ立て暴れ立て進め進め、神とも戦え仏をも擲《たた》け、道理を壊《やぶ》って壊りすてなば天下は我らがものなるぞと、叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》するたび土石を飛ばして丑《うし》の刻より寅《とら》の刻、卯《う》となり辰《たつ》となるまでもちっとも止まず励ましたつれば、数万《すまん》の眷属《けんぞく》勇みをなし、水を渡るは波を蹴かえし、陸《おか》を走るは沙《すな》を蹴かえし、天地を塵埃《ほこり》に黄ばまして日の光をもほとほと掩《おお》い、斧を揮って数寄者が手入れ怠りなき松を冷笑《あざわら》いつつほっきと斫《き》るあり、矛を舞わして板屋根にたちまち穴を穿《うが》つもあり、ゆさゆさゆさと怪力もてさも堅固なる家を動かし橋を揺がすものもあり。手ぬるし手ぬるし酷《むご》さが足らぬ、我に続けと憤怒《ふんぬ》の牙噛み鳴らしつつ夜叉王の躍《おど》り上って焦躁《いらだ》てば、虚空《こくう》に充《み》ち満ちたる眷属、おたけび鋭くおめき叫んで遮《しゃ》に無に暴威を揮うほどに、神前寺内に立てる樹も富家《ふうか》の庭に養《か》われし樹も、声振り絞って泣き悲しみ、見る見る大地の髪の毛は恐怖に一々|竪立《じゅりつ》なし、柳は倒れ竹は割るる折しも、黒雲空に流れて樫《かし》の実よりも大きなる雨ばらりばらりと降り出せば、得たりとますます暴るる夜叉、垣《かき》を引き捨て塀《へい》を蹴倒し、門をも破《こわ》し屋根をもめくり軒端《のきば》の瓦《かわら》を踏み砕き、ただ一[#(ト)]揉みに屑屋《くずや》を飛ばし二[#(タ)]揉み揉んでは二階を捻《ね》じ取り、三たび揉んでは某寺《なにがしでら》をものの見事に潰《ついや》し崩《くず》し、どうどうどっと鬨《とき》をあぐるそのたびごとに心を冷やし胸を騒がす人々の、あれに気づかいこれに案ずる笑止の様を見ては喜び、居所さえもなくされて悲しむものを見ては喜び、いよいよ図に乗り狼藉《ろうぜき》のあらん限りを逞《たくま》しゅうすれば、八百八町百万の人みな生ける心地せず顔色さらにあらばこそ。
 中にもわけて驚きしは円道為右衛門、せっかくわずかに出来上りし五重塔は揉まれ揉まれて九輪は動《ゆら》ぎ、頂上
前へ 次へ
全15ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング