思わず一足退きしが屈せず奮《ふる》って立ち出でつ、欄を握《つか》んできっと睥《にら》めば天《そら》は五月《さつき》の闇《やみ》より黒く、ただ囂々《ごうごう》たる風の音のみ宇宙に充《み》ちて物騒がしく、さしも堅固の塔なれど虚空に高く聳《そび》えたれば、どうどうどっと風の来るたびゆらめき動きて、荒浪の上に揉《も》まるる棚《たな》なし小舟《おぶね》のあわや傾覆《くつがえ》らん風情、さすが覚悟を極めたりしもまた今さらにおもわれて、一期の大事死生の岐路《ちまた》と八万四千の身の毛よだたせ牙|咬《か》みしめて眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、いざその時はと手にして来し六分鑿《ろくぶのみ》の柄忘るるばかり引っ握んでぞ、天命を静かに待つとも知るや知らずや、風雨いとわず塔の周囲《めぐり》を幾たびとなく徘徊《はいかい》する、怪しの男一人ありけり。
其三十五
去る日の暴風雨《あらし》は我ら生まれてから以来《このかた》第一の騒ぎなりしと、常は何事に逢うても二十年前三十年前にありし例《ためし》をひき出して古きを大げさに、新しきをわけもなく云い消す気質《かたぎ》の
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