らわし、なおもやさしき語気|円暢《なだらか》に、こう打ち解けてしもうた上は互いにまずいこともなく、上人様の思召《おぼしめ》しにもかない我たちの一分《いちぶん》も皆立つというもの、ああなんにせよ好い心持、十兵衛汝も過してくれ、我も充分今日こそ酔おう、と云いつつ立って違い棚《だな》に載せて置いたる風呂敷包みとりおろし、結び目といて二束《ふたつかね》にせし書類《かきもの》いだし、十兵衛が前に置き、我にあっては要なき此品《これ》の、一ツは面倒な材木《きしな》の委細《くわ》しい当りを調べたのやら、人足|軽子《かるこ》そのほかさまざまの入目を幾晩かかかってようやく調べあげた積り書、また一ツはあすこをどうしてここをこうしてと工夫に工夫した下絵図、腰屋根の地割りだけなもあり、平地《ひらじ》割りだけなのもあり、初重の仕形だけのもあり、二手先または三手先、出し組ばかりなるもあり、雲形波形|唐草《からくさ》生類《しょうるい》彫物のみを書きしもあり、何よりかより面倒なる真柱から内法《うちのり》長押《なげし》腰長押切目長押に半長押、縁板《えんいた》縁かつら亀腹柱高欄|垂木《たるき》桝《ます》肘木《ひじき》、貫《ぬき》やら角木《すみぎ》の割合算法、墨縄《すみ》の引きよう規尺《かね》の取りよう余さず洩《も》らさず記せしもあり、中には我のせしならで家に秘めたる先祖の遺品《かたみ》、外へは出せぬ絵図もあり、京都《きょう》やら奈良の堂塔を写しとりたるものもあり、これらはみんな汝《きさま》に預くる、見たらば何かの足しにもなろ、と自己《おの》が精神《こころ》を籠《こ》めたるものを惜しげもなしに譲りあたうる、胸の広さの頼もしきを解《げ》せぬというにはあらざれど、のっそりもまた一[#(ト)]気性、他《ひと》の巾着《きんちゃく》でわが口|濡《ぬ》らすようなことは好まず、親方まことにありがとうはござりまするが、御親切は頂戴《いただ》いたも同然、これはそちらにお納めを、と心はさほどになけれども言葉に膠《にべ》のなさ過ぎる返辞をすれば、源太大きに悦ばず。此品《これ》をば汝は要《い》らぬと云うのか、と慍《いか》りを底に匿《かく》して問うに、のっそりそうとは気もつかねば、別段拝借いたしても、と一句うっかり答うる途端、鋭き気性の源太は堪《たま》らず、親切の上親切を尽してわが知恵思案を凝らせし絵図までやらんというものを、むげに返すか慮外なり、何ほど自己《おのれ》が手腕《うで》のよくて他《ひと》の好情《なさけ》を無にするか、そもそも最初に汝《おのれ》めがわが対岸《むこう》へ廻わりし時にも腹は立ちしが、じっと堪《こら》えて争わず、普通大体《なみたいてい》のものならばわが庇蔭《かげ》被《き》たる身をもって一つ仕事に手を入るるか、打ち擲《たた》いても飽かぬ奴と、怒って怒ってどうにもすべきを、可愛《かわゆ》きものにおもえばこそ一言半句の厭味も云わず、ただただ自然の成行きに任せおきしを忘れしか、上人様のお諭しを受けての後も分別に分別|渇《か》らしてわざわざ出かけ、汝のために相談をかけてやりしも勝手の意地張り、大体ならぬものとても堪忍《がまん》なるべきところならぬを、よくよく汝をいとしがればぞ踏み耐《こた》えたるとも知らざるか、汝が運のよきのみにて汝が手腕《うで》のよきのみにて汝が心の正直のみにて、上人様より今度の工事《しごと》命《いいつ》けられしと思い居るか、此品《これ》をばやってこの源太が恩がましくでも思うと思うか、乃至《ないし》はもはや慢気の萌《きざ》して頭《てん》からなんのつまらぬものと人の絵図をも易く思うか、取らぬとあるに強いはせじ、あまりといえば人情なき奴、ああありがとうござりますると喜び受けてこの中《うち》の仕様を一所二所《ひととこふたとこ》は用いし上に、あの箇所はお蔭でうもう行きましたと後で挨拶《あいさつ》するほどのことはあっても当然なるに、開《あ》けて見もせず覗《のぞ》きもせず、知れきったると云わぬばかりに愛想も菅《すげ》もなく要らぬとは、汝十兵衛よくも撥《は》ねたの、この源太がした図の中に汝の知ったもののみあろうや、汝《うぬ》らが工風の輪の外に源太が跳《おど》り出ずにあろうか、見るに足らぬとそちで思わば汝《おのれ》が手筋も知れてある、大方高の知れた塔建たぬ前から眼に暎《うつ》って気の毒ながら批難《なん》もある、もう堪忍の緒も断《き》れたり、卑劣《きたな》い返報《かえし》はすまいなれど源太が烈《はげ》しい意趣|返報《がえし》は、する時なさでおくべきか、酸くなるほどに今までは口もきいたがもうきかぬ、一旦思い捨つる上は口きくほどの未練ももたぬ、三年なりとも十年なりとも返報《しかえし》するに充分なことのあるまで、物蔭から眼を光らして睨みつめ無言でじっと待っててくりょうと、気性が違えば思わ
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