うに余る冥加《みょうが》のお言葉。のっそりハッと俯伏《うつぶ》せしまま五体を濤《なみ》と動《ゆる》がして、十兵衛めが生命《いのち》はさ、さ、さし出しまする、と云いしぎり咽《のど》塞《ふさ》がりて言語絶え、岑閑《しんかん》とせし広座敷に何をか語る呼吸の響き幽《かす》かにしてまた人の耳に徹しぬ。

     其二十一

 紅蓮白蓮《ぐれんびゃくれん》の香《におい》ゆかしく衣袂《たもと》に裾《すそ》に薫《かお》り来て、浮葉に露の玉|動《ゆら》ぎ立葉に風のそよ吹ける面白の夏の眺望《ながめ》は、赤蜻蛉《あかとんぼ》菱藻《ひしも》を嬲《なぶ》り初霜向うが岡の樹梢《こずえ》を染めてより全然《さらり》となくなったれど、赭色《たいしゃ》になりて荷《はす》の茎ばかり情のう立てる間に、世を忍びげの白鷺《しらさぎ》がそろりと歩む姿もおかしく、紺青色《こんじょういろ》に暮れて行く天《そら》にようやく輝《ひか》り出す星を背中に擦《す》って飛ぶ雁《かり》の、鳴き渡る音も趣味《おもむき》ある不忍《しのばず》の池の景色を下物《さかな》のほかの下物にして、客に酒をば亀の子ほど飲まする蓬莱屋《ほうらいや》の裏二階に、気持のよさそうな顔して欣然と人を待つ男一人。唐桟揃《とうざんぞろ》いの淡泊《あっさり》づくりに住吉張りの銀煙管おとなしきは、職人らしき侠気《きおい》の風の言語《ものいい》挙動《そぶり》に見えながら毫末《すこし》も下卑ぬ上品|質《だち》、いずれ親方親方と多くのものに立てらるる棟梁株《とうりょうかぶ》とは、かねてから知り居る馴染《なじみ》のお伝という女が、さぞお待ち遠でござりましょう、と膳を置きつつ云う世辞を、待つ退屈さに捕《つかま》えて、待ち遠で待ち遠で堪《たま》りきれぬ、ほんとに人の気も知らないで何をして居るであろう、と云えば、それでもお化粧《しまい》に手間の取れまするが無理はないはず、と云いさしてホホと笑う慣れきった返しの太刀筋。アハハハそれも道理《もっとも》じゃ、今に来たらばよく見てくれ、まあ恐らくここらに類はなかろう、というものだ。おや恐ろしい、何を散財《おご》って下さります、そして親方、というものは御師匠さまですか。いいや。娘さんですか。いいや。後家様。いいや。お婆《ばあ》さんですか。馬鹿を云え可愛そうに。では赤ん坊。こいつめ人をからかうな、ハハハハハ。ホホホホホとくだらなく笑うところへ襖《ふすま》の外から、お伝さんと名を呼んでお連れ様と知らすれば、立ち上って唐紙明けにかかりながらちょっと後ろ向いて人の顔へ異《おつ》に眼をくれ無言で笑うは、お嬉しかろと調戯《からか》って焦《じ》らして底悦喜《そこえっき》さする冗談なれど、源太はかえって心《しん》からおかしく思うとも知らずにお伝はすいと明くれば、のろりと入り来る客は色ある新造《しんぞ》どころか香も艶もなき無骨男、ぼうぼう頭髪《あたま》のごりごり腮髯《ひげ》、面《かお》は汚《よご》れて衣服《きもの》は垢《あか》づき破れたる見るから厭気のぞっとたつほどな様子に、さすがあきれて挨拶《あいさつ》さえどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]せしまま急には出ず。
 源太は笑みを含みながら、さあ十兵衛ここへ来てくれ、関《かま》うことはない大胡坐《おおあぐら》で楽にいてくれ、とおずおずし居るを無理に坐に居《す》え、やがて膳部も具備《そなわ》りし後、さてあらためて飲み干したる酒盃《さかずき》とって源太は擬《さ》し、沈黙《だんまり》で居る十兵衛に対《むか》い、十兵衛、先刻《さっき》に富松《とみまつ》をわざわざ遣《や》ってこんなところに来てもらったは、何でもない、実は仲直りしてもらいたくてだ、どうか汝《きさま》とわっさり飲んで互いの胸を和熟させ、過日《こないだ》の夜の我《おれ》が云うたあの云い過ぎも忘れてもらいたいとおもうからのこと、聞いてくれこういうわけだ、過日の夜は実は我もあまり汝をわからぬ奴と一途《いちず》に思って腹も立った、恥かしいが肝癪《かんしゃく》も起し業《ごう》も沸《にや》し汝の頭を打砕《ぶっか》いてやりたいほどにまでも思うたが、しかし幸福《しあわせ》に源太の頭が悪玉にばかりは乗っ取られず、清吉めが家へ来て酔った揚句に云いちらした無茶苦茶を、ああ了見の小《ちさ》い奴はつまらぬことを理屈らしく恥かしくもなく云うものだと、聞いているさえおかしくて堪《たま》らなさにふとそう思ったその途端、その夜汝の家で陳《なら》べ立って来た我の云い草に気がついて見れば清吉が言葉と似たり寄ったり、ええ間違った一時の腹立ちに捲《ま》き込まれたか残念、源太男が廃《すた》る、意地が立たぬ、上人の蔑視《さげすみ》も恐ろしい、十兵衛が何もかも捨てて辞退するものを斜《はす》に取って逆意地《さかいじ》たてれば大間違い、とは思ってもあまり汝のわからな過
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