ってやれ、と心ありげに云わるる言葉を源太早くも合点して、ええ可愛がってやりますとも、といと清《すず》しげに答うれば、上人満面|皺《しわ》にして悦《よろこ》びたまいつ、よいわよいわ、ああ気味のよい男児じゃな、と真から底からほめられて、もったいなさはありながら源太おもわず頭《こうべ》をあげ、お蔭《かげ》で男児になれましたか、と一語に無限の感慨を含めて喜ぶ男泣き。はやこの時に十兵衛が仕事に助力せん心の、世に美しくも湧きたるなるべし。
其二十
十兵衛感応寺にいたりて朗円上人に見《まみ》え、涙ながらに辞退の旨云うて帰りしその日の味気なさ、煙草のむだけの気も動かすに力なく、茫然《ぼんやり》としてつくづくわが身の薄命《ふしあわせ》、浮世の渡りぐるしきことなど思い廻《めぐ》らせば思い廻らすほど嬉《うれ》しからず、時刻になりて食う飯の味が今さら異《かわ》れるではなけれど、箸《はし》持つ手さえ躊躇《たゆた》いがちにて舌が美味《うも》うは受けとらぬに、平常《つね》は六碗七碗を快う喫《く》いしもわずかに一碗二碗で終え、茶ばかりかえって多く飲むも、心に不悦《まずさ》のある人の免れがたき慣例《ならい》なり。
主人《あるじ》が浮かねば女房も、何の罪なきやんちゃざかりの猪之《いの》まで自然《おのず》と浮き立たず、淋《さび》しき貧家のいとど淋しく、希望《のぞみ》もなければ快楽《たのしみ》も一点あらで日を暮らし、暖か味のない夢に物寂《ものさ》びた夜を明かしけるが、お浪|暁天《あかつき》の鐘に眼覚めて猪之と一所に寝たる床よりそっと出づるも、朝風の寒いに火のないうちから起すまじ、も少し睡《ね》させておこうとの慈《やさ》しき親の心なるに、何もかも知らいでたわいなく寝ていし平生《いつも》とは違い、どうせしことやらたちまち飛び起き、襦袢《じゅばん》一つで夜具の上|跳《は》ね廻り跳ね廻り、厭じゃい厭じゃい、父様を打《ぶ》っちゃ厭じゃい、と蕨《わらび》のような手を眼にあてて何かは知らず泣き出せば、ええこれ猪之はどうしたものぞ、とびっくりしながら抱き止むるに抱かれながらもなお泣き止まず。誰も父様を打ちはしませぬ、夢でも見たか、それそこに父様はまだ寝て居らるる、と顔を押し向け知らすれば不思議そうに覗き込んで、ようやく安心しはしてもまだ疑惑《うたがい》の晴れぬ様子。
猪之やなんにもありはしないわ、夢を見たのじゃ、さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床にはいって寝て居るがよい、と引き倒すようにして横にならせ、掻巻《かいまき》かけて隙間《すきま》なきよう上から押しつけやる母の顔を見ながら眼をぱっちり、ああ怖《こわ》かった、今よその怖い人が。おゝおゝ、どうかしましたか。大きな、大きな鉄槌《げんのう》で、黙って坐って居る父様の、頭を打って幾つも打って、頭が半分|砕《こわ》れたので坊は大変びっくりした。ええ鶴亀鶴亀、厭なこと、延喜でもないことを云う、と眉《まゆ》を皺《しわ》むる折も折、戸外《おもて》を通る納豆売りの戦《ふる》え声に覚えある奴が、ちェッ忌々《いまいま》しい草鞋《わらじ》が切れた、と打ち独語《つぶや》きて行き過ぐるに女房ますます気色を悪《あ》しくし、台所に出て釜《かま》の下を焚《た》きつくれば思うごとく燃えざる薪《まき》も腹立たしく、引窓の滑《すべ》りよく明かぬも今さらのように焦《じ》れったく、ああ何となく厭な日と思うも心からぞとは知りながら、なお気になることのみ気にすればにや多けれど、また云い出さば笑われんと自分で呵《しか》って平日《いつも》よりは笑顔をつくり言葉にも活気をもたせ、いきいきとして夫をあしらい子をあしらえど、根がわざとせし偽飾《いつわり》なればかえって笑いの尻声が憂愁《うれい》の響きを遺して去る光景《ありさま》の悲しげなるところへ、十兵衛殿お宅か、と押柄《おうへい》に大人びた口ききながらはいり来る小坊主、高慢にちょこんと上り込み、御用あるにつきすぐと来たられべしと前後《あとさき》なしの棒口上。
お浪も不審、十兵衛も分らぬことに思えども辞《いな》みもならねば、はや感応寺の門くぐるさえ無益《むやく》しくは考えつつも、何御用ぞと行って問えば、天地|顛倒《てんどう》こりゃどうじゃ、夢か現《うつつ》か真実か、円道右に為右衛門左に朗円上人|中央《まんなか》に坐したもうて、円道言葉おごそかに、このたび建立なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべきはずのところ、方丈|思《おぼ》しめし寄らるることあり格別の御詮議例外の御慈悲をもって、十兵衛その方《ほう》にしかとお任せ相成る、辞退の儀は決して無用なり、早々ありがたく御受け申せ、と云い渡さるるそれさえあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衛よ、思う存分し遂げて見い、よう仕上らば嬉しいぞよ、と荷担《にな》
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