っそり汝《きさま》やって見ろよと譲ってくれればいいけれどものうとの馬鹿に虫のいい答え、ハハハ憶《おも》い出しても、心配そうに大真面目くさく云ったその面がおかしくて堪りませぬ、あまりおかしいので憎っ気もなくなり、箆棒《べらぼう》めと云い捨てに別れましたが。それぎりか。へい。そうかえ、さあ遅くなる、関わずに行くがよい。さようならと清吉は自己《おの》が仕事におもむきける、後はひとりで物思い、戸外《おもて》では無心の児童《こども》たちが独楽戦《こまあて》の遊びに声々|喧《かしま》しく、一人殺しじゃ二人殺しじゃ、醜態《ざま》を見よ讐《かたき》をとったぞと号《わめ》きちらす。おもえばこれも順々|競争《がたき》の世の状《さま》なり。
其三
世に栄え富める人々は初霜月の更衣《うつりかえ》も何の苦慮《くるしみ》なく、紬《つむぎ》に糸織に自己《おの》が好き好きの衣《きぬ》着て寒さに向う貧者の心配も知らず、やれ炉開きじゃ、やれ口切りじゃ、それに間に合うよう是非とも取り急いで茶室|成就《しあげ》よ待合の庇廂《ひさし》繕えよ、夜半《よわ》のむら時雨《しぐれ》も一服やりながらでのうては面白く窓|撲《う》つ音を聞きがたしとの贅沢《ぜいたく》いうて、木枯《こがらし》凄《すさ》まじく鐘の音《ね》氷るようなって来る辛き冬をば愉快《こころよ》いものかなんぞに心得らるれど、その茶室の床板《とこいた》削りに鉋《かんな》礪《と》ぐ手の冷えわたり、その庇廂の大和《やまと》がき結いに吹きさらされて疝癪《せんしゃく》も起すことある職人|風情《ふぜい》は、どれほどの悪い業《ごう》を前の世になしおきて、同じ時候に他《ひと》とは違い悩め困《くる》しませらるるものぞや、取り分け職人仲間の中でも世才に疎《うと》く心好き吾夫《うちのひと》、腕は源太親方さえ去年いろいろ世話して下されし節《おり》に、立派なものじゃと賞《ほ》められしほど確実《たしか》なれど、寛濶《おうよう》の気質《きだて》ゆえに仕事も取り脱《はぐ》りがちで、好いことはいつも他《ひと》に奪《と》られ年中嬉しからぬ生活《くらし》かたに日を送り月を迎うる味気なさ、膝頭《ひざがしら》の抜けたを辛くも埋め綴《つづ》[#ルビの「つづ」は底本では「つつ」]った股引《ももひき》ばかりわが夫にはかせおくこと、婦女《おんな》の身としては他人《よそ》の見る眼も羞ずかしけれど、何にもかも貧がさする不如意に是非のなく、いま縫う猪之《いの》が綿入れも洗い曝《ざら》した松坂縞《まつざかじま》、丹誠一つで着させても着させ栄《ば》えなきばかりでなく見ともないほど針目がち、それを先刻《さっき》は頑是《がんぜ》ない幼な心といいながら、母様|其衣《それ》は誰がのじゃ、小さいからは我《おれ》の衣服《べべ》か、嬉しいのうと悦《よろこ》んでそのまま戸外《おもて》へ駈け出《いだ》し、珍らしゅう暖かい天気に浮かれて小竿《こざお》持ち、空に飛び交う赤蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《あかとんぼ》を撲《はた》いて取ろうとどこの町まで行ったやら、ああ考え込めば裁縫《しごと》も厭気になって来る、せめて腕の半分も吾夫の気心が働いてくれたならばこうも貧乏はしまいに、技倆《わざ》はあっても宝の持ち腐れの俗諺《たとえ》の通り、いつその手腕《うで》の顕《あら》われて万人の眼に止まるということの目的《あて》もない、たたき大工|穴鑿《あなほ》り大工、のっそり[#「のっそり」に傍点]という忌々《いまいま》しい諢名《あだな》さえ負わせられて同業中《なかまうち》にも軽《かろ》しめらるる歯痒《はがゆ》さ恨めしさ、蔭《かげ》でやきもきと妾《わたし》が思うには似ず平気なが憎らしいほどなりしが、今度はまたどうしたことか感応寺に五重塔の建つということ聞くや否や、急にむらむらとその仕事を是非する気になって、恩のある親方様が望まるるをも関わず胴欲に、このような身代の身に引き受きょうとは、ちとえら過ぎると連れ添う妾《わたし》でさえ思うものを、他人はなんと噂《うわ》さするであろう、ましてや親方様は定めし憎いのっそりめと怒ってござろう、お吉様はなおさら義理知らずの奴めと恨んでござろう、今日は大抵どちらにか任すと一言上人様のお定《き》めなさるはずとて、今朝出て行かれしがまだ帰られず、どうか今度の仕事だけはあれほど吾夫は望んで居らるるとも此方《こち》は分に応ぜず、親方には義理もありかたがた親方の方に上人様の任さるればよいと思うような気持もするし、また親方様の大気にて別段怒りもなさらずば、吾夫にさせて見事成就させたいような気持もする、ええ気の揉《も》める、どうなることか、とても良人《うち》にはお任せなさるまいがもしもいよいよ吾夫のすることになったら、どのようにまあ親方様お吉様の腹立てらるるか知れぬ、
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