ああ心配に頭脳《あたま》の痛む、またこれが知れたらば女の要《い》らぬ無益《むだ》心配、それゆえいつも身体の弱いと、有情《やさし》くて無理な叱言《こごと》を受くるであろう、もう止めましょ止めましょ、ああ痛、と薄痘痕《うすいも》のある蒼《あお》い顔を蹙《しか》めながら即効紙の貼《は》ってある左右の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を、縫い物捨てて両手で圧《おさ》える女の、齢は二十五六、眼鼻立ちも醜からねど美味《うま》きもの食わぬに膩気《あぶらけ》少く肌理《きめ》荒れたる態《さま》あわれにて、襤褸衣服《ぼろぎもの》にそそけ髪ますます悲しき風情なるが、つくづく独《ひと》り歎ずる時しも、台所の劃《しき》りの破れ障子がらりと開けて、母様これを見てくれ、と猪之が云うにびっくりして、汝《そなた》はいつからそこにいた、と云いながら見れば、四分板六分板の切れ端を積んで現然《ありあり》と真似び建てたる五重塔、思わず母親涙になって、おお好い児ぞと声曇らし、いきなり猪之に抱《いだ》きつきぬ。

     其四

 当時に有名《なうて》の番匠川越の源太が受け負いて作りなしたる谷中感応寺の、どこに一つ批点を打つべきところあろうはずなく、五十畳敷|格天井《ごうてんじょう》の本堂、橋をあざむく長き廻廊、幾部《いくつ》かの客殿、大和尚が居室《いま》、茶室、学徒|所化《しょけ》の居るべきところ、庫裡《くり》、浴室、玄関まで、あるは荘厳を尽しあるは堅固を極《きわ》め、あるは清らかにあるは寂《さ》びておのおのそのよろしきに適《かな》い、結構少しも申し分なし。そもそも微々たる旧基を振るいてかほどの大寺を成せるは誰ぞ。法諱《おんな》を聞けばそのころの三歳児《みつご》も合掌礼拝すべきほど世に知られたる宇陀《うだ》の朗円上人《ろうえんしょうにん》とて、早くより身延《みのぶ》の山に螢雪《けいせつ》の苦学を積まれ、中ごろ六十余州に雲水の修行をかさね、毘婆舎那《びばしゃな》の三行《さんぎょう》に寂静《じゃくじょう》の慧剣《えけん》を礪《と》ぎ、四種の悉檀《しったん》に済度の法音を響かせられたる七十有余の老和尚、骨は俗界の葷羶《くんせん》を避くるによって鶴《つる》のごとくに痩《や》せ、眼《まなこ》は人世《じんせい》の紛紜《ふんうん》に厭《あ》きて半ば睡《ねむ》れるがごとく、もとより壊空《えくう》の理を諦《たい》して意欲の火炎《ほのお》を胸に揚げらるることもなく、涅槃《ねはん》の真を会《え》して執着《しゅうじゃく》の彩色《いろ》に心を染まさるることもなければ、堂塔を興《おこ》し伽藍《がらん》を立てんと望まれしにもあらざれど、徳を慕い風を仰いで寄り来る学徒のいと多くて、それらのものが雨露|凌《しの》がん便宜《たより》も旧《もと》のままにてはなくなりしまま、なお少し堂の広くもあれかしなんど独語《つぶや》かれしが根となりて、道徳高き上人の新たに規模を大きゅうして寺を建てんと云いたまうぞと、このこと八方に伝播《ひろま》れば、中には徒弟の怜悧《りこう》なるがみずから奮って四方に馳《は》せ感応寺建立に寄附を勧めて行《ある》くもあり、働き顔に上人の高徳を演《の》べ説き聞かし富豪を慫慂《すす》めて喜捨せしむる信徒もあり、さなきだに平素《ひごろ》より随喜|渇仰《かつごう》の思いを運べるもの雲霞のごときにこの勢いをもってしたれば、上諸侯より下町人まで先を争い財を投じて、我一番に福田《ふくでん》へ種子を投じて後の世を安楽《やす》くせんと、富者は黄金白銀を貧者は百銅二百銅を分に応じて寄進せしにぞ、百川海に入るごとく瞬《またた》く間《ひま》に金銭の驚かるるほど集まりけるが、それより世才に長《た》けたるものの世話人となり用人となり、万事万端|執《と》り行うてやがて立派に成就しけるとは、聞いてさえ小気味のよき話なり。
 しかるに悉皆《しっかい》成就の暁、用人頭の為右衛門普請諸入用諸雑費一切しめくくり、手脱《てぬか》ることなく決算したるになお大金の剰《あま》れるあり。これをばいかになすべきと役僧の円道《えんどう》もろとも、髪ある頭に髪なき頭突き合わせて相談したれど別に殊勝なる分別も出でず、田地を買わんか畠《はた》買わんか、田も畠も余るほど寄附のあれば今さらまたこの浄財をそのようなことに費すにも及ばじと思案にあまして、面倒なりよきに計らえと皺枯《しわが》れたる御声にて云いたまわんは知れてあれど、恐る恐る円道ある時、思《おぼ》さるる用途《みち》もやと伺いしに、塔を建てよとただ一言云われしぎり振り向きもしたまわず、鼈甲縁《べっこうぶち》の大きなる眼鏡《めがね》の中《うち》より微《かす》かなる眼の光りを放たれて、何の経やら論やらを黙々と読み続けられけるが、いよいよ塔の建つに定まって例の源太に、積り書|出《
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