いだ》せと円道が命令《いいつ》けしを、知ってか知らずにか上人様にお目通り願いたしと、のっそりが来しは今より二月ほど前なりし。

     其五

 紺とはいえど汗に褪《さ》め風に化《かわ》りて異な色になりし上、幾たびか洗い濯《すす》がれたるためそれとしも見えず、襟《えり》の記印《しるし》の字さえ朧《おぼろ》げとなりし絆纏《はんてん》を着て、補綴《つぎ》のあたりし古股引《ふるももひき》をはきたる男の、髪は塵埃《ほこり》に塗《まみ》れて白《しら》け、面は日に焼けて品格《ひん》なき風采《ようす》のなおさら品格なきが、うろうろのそのそと感応寺の大門を入りにかかるを、門番|尖《とが》り声で何者ぞと怪しみ誰何《ただ》せば、びっくりしてしばらく眼を見張り、ようやく腰を屈《かが》めて馬鹿丁寧に、大工の十兵衛と申しまする、御普請につきましてお願いに出ました、とおずおず云う風態《そぶり》の何となく腑《ふ》には落ちねど、大工とあるに多方源太が弟子かなんぞの使いに来たりしものならんと推察《すい》して、通れと一言|押柄《おうへい》に許しける。
 十兵衛これに力を得て、四方《あたり》を見廻わしながら森厳《こうごう》しき玄関前にさしかかり、お頼申《たのもう》すと二三度いえば鼠衣《ねずみごろも》の青黛頭《せいたいあたま》、可愛《かわゆ》らしき小坊主の、おおと答えて障子引き開《あ》けしが、応接に慣れたるものの眼捷《めばや》く人を見て、敷台までも下りず突っ立ちながら、用事なら庫裡《くり》の方へ廻れ、と情《つれ》なく云い捨てて障子ぴっしゃり、後はどこやらの樹頭《き》に啼《な》く鵯《ひよ》の声ばかりして音もなく響きもなし。なるほどと独《ひと》り言《ごと》しつつ十兵衛庫裡にまわりてまた案内を請えば、用人為右衛門|仔細《しさい》らしき理屈顔して立ち出で、見なれぬ棟梁殿、いずくより何の用事で見えられた、と衣服《みなり》の粗末なるにはや侮《あなど》り軽《かろ》しめた言葉|遣《づか》い、十兵衛さらに気にもとめず、野生《わたくし》は大工の十兵衛と申すもの、上人様の御眼にかかりお願いをいたしたいことのあってまいりました、どうぞお取次ぎ下されまし、と首《こうべ》を低くして頼み入るに、為右衛門じろりと十兵衛が垢臭《あかくさ》き頭上《あたま》より白の鼻緒の鼠色になった草履はき居る足先まで睨《ね》め下し、ならぬ、ならぬ、上人様は俗用にお関《かか》わりはなされぬわ、願いというは何か知らねど云うて見よ、次第によりては我が取り計ろうてやる、とさもさも万事心得た用人めかせる才物ぶり。それを無頓着《むとんじゃく》の男の質朴《ぶきよう》にも突き放して、いえ、ありがとうはござりますれど上人様に直々《じきじき》でのうては、申しても役に立ちませぬこと、どうぞただお取次ぎを願いまする、と此方《こち》の心が醇粋《いっぽんぎ》なれば先方《さき》の気に触《さわ》る言葉とも斟酌《しんしゃく》せず推し返し言えば、為右衛門腹には我を頼まぬが憎くて慍《いか》りを含み、理《わけ》のわからぬ男じゃの、上人様は汝《きさま》ごとき職人らに耳は仮《か》したまわぬというに、取り次いでも無益《むやく》なれば我が計ろうて得させんと、甘く遇《あしら》えばつけ上る言い分、もはや何もかも聞いてやらぬ、帰れ帰れ、と小人の常態《つね》とて語気たちまち粗暴《あら》くなり、膠《にべ》なく言い捨て立たんとするにあわてし十兵衛、ではござりましょうなれど、と半分いう間なく、うるさい、喧《やかま》しいと打ち消され、奥の方に入られてしもうて茫然《ぼんやり》と土間に突っ立ったまま掌《て》の裏《うち》の螢《ほたる》に脱去《ぬけ》られしごとき思いをなしけるが、是非なく声をあげてまた案内を乞うに、口ある人のありやなしや薄寒き大寺の岑閑《しんかん》と、反響《ひびき》のみはわが耳に堕《お》ち来れど咳声《しわぶき》一つ聞えず、玄関にまわりてまた頼むといえば、先刻《さき》見たる憎げな怜悧小僧《りこうこぼうず》のちょっと顔出して、庫裡へ行けと教えたるに、と独語《つぶや》きて早くも障子ぴしゃり。
 また庫裡に廻りまた玄関に行き、また玄関に行き庫裡に廻り、ついには遠慮を忘れて本堂にまで響く大声をあげ、頼む頼むお頼申すと叫べば、其声《それ》より大《でか》き声を発《いだ》して馬鹿めと罵《ののし》りながら為右衛門ずかずかと立ち出で、僮僕《おとこ》どもこの狂漢《きちがい》を門外に引き出《いだ》せ、騒々しきを嫌いたまう上人様に知れなば、我らがこやつのために叱らるべしとの下知《げじ》、心得ましたと先刻《さき》より僕人部屋《おとこべや》に転《ころ》がりいし寺僕《おとこ》ら立ちかかり引き出さんとする、土間に坐り込んで出《いだ》されじとする十兵衛。それ手を取れ足を持ち上げよと多勢《おおぜい》口々に罵
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