姉御に、済みませんがお頼み申します、つい昨晩《ゆうべ》酔《へべ》まして、と後は云わず異な手つきをして話せば、眉頭《まゆがしら》に皺《しわ》をよせて笑いながら、仕方のないもないもの、少し締まるがよい、と云い云い立って幾らかの金を渡せば、それをもって門口《かどぐち》に出で何やらくどくど押し問答せし末こなたに来たりて、拳骨《げんこつ》で額を抑え、どうも済みませんでした、ありがとうござりまする、と無骨な礼をしたるもおかし。

     其二

 火は別にとらぬから此方《こち》へ寄るがよい、と云いながら重げに鉄瓶を取り下して、属輩《めした》にも如才なく愛嬌《あいきょう》を汲《く》んでやる桜湯一杯、心に花のある待遇《あしらい》は口に言葉の仇《あだ》繁《しげ》きより懐かしきに、悪い請求《たのみ》をさえすらりと聴《き》いてくれし上、胸にわだかまりなくさっぱりと平日《つね》のごとく仕做《しな》されては、清吉かえって心羞《うらはず》かしく、どうやら魂魄《たましい》の底の方がむず痒《がゆ》いように覚えられ、茶碗《ちゃわん》取る手もおずおずとして進みかぬるばかり、済みませぬという辞誼《じぎ》を二度ほど繰り返せし後、ようやく乾《かわ》ききったる舌を湿《うるお》す間もあらせず、今ごろの帰りとはあまり可愛がられ過ぎたの、ホホ、遊ぶはよけれど職業《しごと》の間を欠いて母親《おふくろ》に心配さするようでは、男振りが悪いではないか清吉、汝《そなた》はこのごろ仲町《なかちょう》の甲州屋様の御本宅の仕事が済むとすぐに根岸の御別荘のお茶席の方へ廻らせられて居るではないか、良人《うち》のも遊ぶは随分好きで汝たちの先に立って騒ぐは毎々なれど、職業を粗略《おろそか》にするは大の嫌い、今もし汝の顔でも見たらばまた例の青筋を立つるに定《き》まって居るを知らぬでもあるまいに、さあ少し遅くはなったれど母親の持病が起ったとか何とか方便は幾らでもつくべし、早う根岸へ行くがよい、五三《ごさ》様もわかった人なれば一日をふてて怠惰《なまけ》ぬに免じて、見透《みす》かしても旦那の前は庇護《かぼ》うてくるるであろう、おお朝飯がまだらしい、三や何でもよいほどに御膳《ごぜん》を其方《そち》へこしらえよ、湯豆腐に蛤鍋《はまなべ》とは行かぬが新漬に煮豆でも構わぬわのう、二三杯かっこんですぐと仕事に走りゃれ走りゃれ、ホホ睡《ねむ》くても昨夜《ゆうべ》をおもえば堪忍《がまん》のなろうに精を惜しむな辛防《しんぼう》せよ、よいは[#「よいは」はママ]弁当も松に持たせてやるわ、と苦《にが》くはなけれど効験《ききめ》ある薬の行きとどいた意見に、汗を出して身の不始末を慚《は》ずる正直者の清吉。
 姉御、では御厄介《ごやっかい》になってすぐに仕事に突っ走ります、と鷲掴《わしづか》みにした手拭《てぬぐい》で額|拭《ふ》き拭き勝手の方に立ったかとおもえば、もうざらざらざらっと口の中へ打《ぶ》ち込むごとく茶漬飯五六杯、早くも食うてしまって出て来たり、さようなら行ってまいります、と肩ぐるみに頭をついと一ツ下《さ》げて煙草管《きせる》を収め、壺屋《つぼや》の煙草入《りょうさげ》三尺帯に、さすがは気早き江戸ッ子|気質《かたぎ》、草履《ぞうり》つっかけ門口出づる、途端に今まで黙っていたりし女は急に呼びとめて、この二三日にのっそり[#「のっそり」に傍点]めに逢《お》うたか、と石から飛んで火の出しごとく声を迸《はし》らし問いかくれば、清吉ふりむいて、逢いました逢いました、しかも昨日御殿坂で例ののっそりがひとしおのっそりと、往生した鶏《とり》のようにぐたりと首を垂《た》れながら歩行《ある》いて居るを見かけましたが、今度こっちの棟梁《とうりょう》の対岸《むこう》に立ってのっそりの癖に及びもない望みをかけ、大丈夫ではあるものの幾らか棟梁にも姉御にも心配をさせるその面《つら》が憎くって面が憎くって堪《たま》りませねば、やいのっそりめと頭から毒を浴びせてくれましたに、あいつのことゆえ気がつかず、やいのっそりめ、のっそりめと三度めには傍へ行って大声で怒鳴ってやりましたればようやくびっくりして梟《ふくろ》に似た眼で我《ひと》の顔を見つめ、ああ清吉あーにーいかと寝惚声《ねぼけごえ》の挨拶《あいさつ》、やい、汝《きさま》は大分好い男児《おとこ》になったの、紺屋《こうや》の干場へ夢にでも上《のぼ》ったか大層高いものを立てたがって感応寺の和尚様に胡麻を摺《す》り込むという話しだが、それは正気の沙汰か寝惚けてかと冷語《ひやかし》をまっ向からやったところ、ハハハ姉御、愚鈍《うすのろ》い奴というものは正直ではありませんか、なんと返事をするかとおもえば、我《わし》も随分骨を折って胡麻は摺って居るが、源太親方を対岸に立てて居るのでどうも胡麻が摺りづらくて困る、親方がの
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