ました、私はもしものことがあれば親方や姉御のためと云や黒煙の煽《あお》りを食っても飛び込むぐらいの了見は持って居るに、畜生ッ、ああ人情《なさけ》ない野郎め、のっそりめ、あいつは火の中へは恩を背負《しょ》っても入りきるまい、ろくな根性はもっていまい、ああ人情ない畜生めだ、と酔いが図らず云い出せし不平の中に潜り込んで、めそめそめそめそ泣き出せば、お吉は夫の顔を見て、例《いつも》の癖が出て来たかと困った風情はしながらも自己の胸にものっそりの憎さがあれば、幾らかは清が言葉を道理《もっとも》と聞く傾きもあるなるべし。
 源太は腹に戸締りのなきほど愚《おろ》かならざれば、猪口《ちょく》を擬《さ》しつけ高笑いし、何を云い出した清吉、寝ぼけるな我の前だわ、三の切を出しても初まらぬぞ、その手で女でも口説きやれ、随分ころりと来るであろう、汝《きさま》が惚《のろ》けた小蝶《こちょう》さまのお部屋ではない、アッハハハと戯言《おどけ》を云えばなお真面目に、木※[#「木+患」、第3水準1−86−5]珠《ずずだま》ほどの涙を払うその手をぺたりと刺身皿《さしみざら》の中につっこみ、しゃくり上げ歔欷《しゃくりあげ》して泣き出し、ああ情ない親方、私を酔漢《よっぱらい》あしらいは情ない、酔ってはいませぬ、小蝶なんぞは飲《た》べませぬ、そういえばあいつの面《つら》がどこかのっそりに似て居るようで口惜しくて情ない、のっそりは憎い奴、親方の対《むこ》うを張って大それた、五重の塔を生意気にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、親方が和《やさ》し過ぎるので増長した謀反人め、謀反人も明智《あけち》のようなは道理《もっとも》だと伯龍《はくりゅう》が講釈しましたがあいつのようなは大悪|無道《ぶどう》、親方はいつのっそりの頭を鉄扇で打《ぶ》ちました、いつ蘭丸《らんまる》にのっそりの領地を与《や》ると云いました、私は今にもしもあいつが親方の言葉に甘えて名を列《なら》べて塔を建てれば打捨《うっちゃ》ってはおけませぬ、擲《たた》き殺して狗《いぬ》にくれますこういうように擲き殺して、と明徳利《あきどくり》の横面いきなり打《たた》き飛ばせば、砕片《かけら》は散って皿小鉢|跳《おど》り出すやちんからり。馬鹿野郎め、と親方に大喝されてそのままにぐずりと坐《すわ》りおとなしく居るかと思えば、散らかりし還原海苔《もどしのり》の上に額おしつけはや鼾声《いびき》なり。源太はこれに打ち笑い、愛嬌のある阿呆めに掻巻《かいまき》かけてやれ、と云いつつ手酌にぐいと引っかけて酒気を吹くことやや久しく、怒《おこ》って帰って来はしたもののああでは高が清吉同然、さて分別がまだ要《い》るわ。

     其十八

 源太が怒って帰りし後、腕|拱《こまぬ》きて茫然《ぼうぜん》たる夫の顔をさし覗《のぞ》きて、吐息つくづくお浪は歎じ、親方様は怒らする仕事はつまり手に入らず、夜の眼も合わさず雛形《ひながた》まで製造《こしら》えた幾日の骨折りも苦労も無益《むだ》にした揚句の果てに他《ひと》の気持を悪うして、恩知らず人情なしと人の口端にかかるのはあまりといえば情ない、女の差し出たことをいうとただ一口に云わるるか知らねど、正直|律義《りちぎ》もほどのあるもの、親方様があれほどに云うて下さる異見について一緒にしたとて恥辱《はじ》にはなるまいに、偏僻《かたいじ》張ってなんのつまらぬ意気地立て、それを誰が感心なと褒《ほ》めましょう、親方様の御料簡につけば第一御恩ある親方のお心持もよいわけ、またお前の名も上り苦労骨折りの甲斐も立つわけ、三方四方みな好いになぜその気にはなられぬか、少しもお前の料簡が妾《わたし》の腹には合点《のみこめ》ぬ、よくまあ思案し直して親方様の御異見につい従うては下されぬか、お前が分別さえ更《か》えれば妾がすぐにも親方様のところへ行き、どうにかこうにか謝罪《あやまり》云うて一生懸命精一杯、打《ぶ》たれても擲《たた》かれても動くまいほど覚悟をきめ、謝罪って謝罪って謝罪り貫《ぬ》いたらお情深い親方様が、まさかにいつまで怒ってばかりも居られまい、一時の料簡違いは堪忍《かに》して下さることもあろう、分別しかえて意地|張《ば》らずに、親方様の云われた通りして見る気にはなられぬか、と夫思いの一筋に口説くも女の道理《もっとも》なれど、十兵衛はなお眼も動かさず、ああもう云うてくれるな、ああ、五重塔とも云うてくれるな、よしないことを思いたってなるほど恩知らずとも云わりょう人情なしとも云わりょう、それも十兵衛の分別が足らいででかしたこと、今さらなんとも是非がない、しかし汝《きさま》の云うように思案しかえるはどうしても厭、十兵衛が仕事に手下は使おうが助言《じょごん》は頼むまい、人の仕事の手下になって使われはしょうが助言はすまい、桝組《ますぐみ》も椽配
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