様が恨めしい、尊《たっと》い上人様のお慈悲は充分わかっていて露ばかりもありがとうなくは思わぬが、ああどうにもこうにもならぬことじゃ、相手は恩のある源太親方、それに恨みの向けようもなし、どうしてもこうしても温順《すなお》に此方《こち》の身を退《ひ》くよりほかに思案も何もないか、ああないか、というて今さら残念な、なまじこのようなことおもいたたずに、のっそりだけで済ましていたらばこのように残念な苦悩《おもい》もすまいものを、分際忘れた我《おれ》が悪かった、ああ我が悪い、我が悪い、けれども、ええ、けれども、ええ、思うまい思うまい、十兵衛がのっそりで浮世の怜悧《りこう》な人たちの物笑いになってしまえばそれで済むのじゃ、連れ添う女房《かか》にまでも内々|活用《はたらき》の利かぬ夫じゃと喞《かこ》たれながら、夢のように生きて夢のように死んでしまえばそれで済むこと、あきらめて見れば情ない、つくづく世間がつまらない、あんまり世間が酷《むご》過ぎる、と思うのもやっぱり愚痴か、愚痴か知らねど情な過ぎるが、言わず語らず諭された上人様のあのお言葉の真実《まこと》のところを味わえば、あくまでお慈悲の深いのが五臓六腑に浸み透って未練な愚痴の出端もないわけ、争う二人をどちらにも傷つかぬよう捌《さば》きたまい、末の末までともによかれと兄弟の子に事寄せて尚《とうと》いお経を解きほぐして、噛《か》んで含めて下さったあのお話に比べて見ればもとより我は弟《おとと》の身、ひとしお他《ひと》に譲らねば人間《ひと》らしくもないものになる、ああ弟とは辛いものじゃと、路《みち》も見分かで屈托の眼《まなこ》は涙《なんだ》に曇りつつ、とぼとぼとして何一ツ愉快《たのしみ》もなきわが家の方に、糸で曳《ひ》かるる木偶《でく》のように我を忘れて行く途中、この馬鹿野郎|発狂漢《きちがい》め、我《ひと》のせっかく洗ったものに何する、馬鹿めとだしぬけに噛《か》みつくごとく罵《ののし》られ、癇張声《かんばりごえ》に胆を冷やしてハッと思えばぐ※[#小書き平仮名わ、350−下−10]らり顛倒《てんどう》、手桶《ておけ》枕に立てかけありし張物板に、我知らず一足二足踏みかけて踏み覆《かえ》したる不体裁《ざまのな》さ。
尻餅《しりもち》ついて驚くところを、狐憑《きつねつ》[#ルビの「きつねつ」は底本では「きつねつつ」]きめ忌々《いまいま》しい、と駄力《だぢから》ばかりは近江《おうみ》のお兼《かね》、顔は子供の福笑戯《ふくわらい》に眼をつけ歪《ゆが》めた多福面《おかめ》のごとき房州出らしき下婢《おさん》の憤怒、拳《こぶし》を挙げて丁と打ち猿臂《えんぴ》を伸ばして突き飛ばせば、十兵衛|堪《たま》らず汚塵《ほこり》に塗《まみ》れ、はいはい、狐に誑《つま》まれました御免なされ、と云いながら悪口雑言聞き捨てに痛さを忍びて逃げ走り、ようやくわが家に帰りつけば、おおお帰りか、遅いのでどういうことかと案じていました、まあ塵埃《ほこり》まぶれになってどうなされました、と払いにかかるを、構うなと一言、気のなさそうな声で打ち消す。その顔を覗き込む女房《にょうぼ》の真実心配そうなを見て、何か知らず無性に悲しくなってじっと湿《うる》みのさしくる眼《まなこ》、自分で自分を叱るように、ええと図らず声を出し、煙草を捻《ひね》って何気なくもてなすことはもてなすものの言葉もなし。平時《つね》に変れる状態《ありさま》を大方それと推察《すい》してさて慰むる便《すべ》もなく、問うてよきやら問わぬがよきやら心にかかる今日の首尾をも、口には出して尋ね得ぬ女房は胸を痛めつつ、その一本は杉箸《すぎばし》で辛くも用を足す火箸に挾んで添える消炭の、あわれ甲斐なき火力《ちから》を頼り土瓶《どびん》の茶をば温《ぬく》むるところへ、遊びに出たる猪之の戻りて、やあ父様帰って来たな、父様も建てるか坊も建てたぞ、これ見てくれ、とさも勇ましく障子を明けて褒《ほ》められたさが一杯に罪なくにこりと笑いながら、指さし示す塔の模形《まねかた》。母は襦袢《じゅばん》の袖を噛み声も得たてず泣き出せば、十兵衛涙に浮くばかりの円《つぶら》の眼《まなこ》を剥《む》き出《いだ》し、まじろぎもせでぐいと睨《ね》めしが、おおでかしたでかした、よくできた、褒美《ほうび》をやろう、ハッハハハと咽《むせ》び笑いの声高く屋の棟《むね》にまで響かせしが、そのまま頭《こうべ》を天に対《むか》わし、ああ、弟とは辛いなあ。
其十一
格子《こうし》開くる響き爽《さわ》やかなること常のごとく、お吉、今帰った、と元気よげに上り来たる夫の声を聞くより、心配を輪に吹き吹き吸うていし煙草管《きせる》を邪見至極に抛《ほう》り出して忙わしく立ち迎え、大層遅かったではないか、と云いつつ背面《うしろ》へ廻って羽織を
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