ずともこの天変を知らず顔では済まぬ汝《おまえ》が出ても来ぬとはあんまりな大勇、汝のお蔭で険難《けんのん》な使いをいいつかり、忌々《いまいま》しいこの瘤《こぶ》を見てくれ、笠は吹き攫《さら》われるずぶ濡《ぬ》れにはなる、おまけに木片《きぎれ》が飛んで来て額にぶつかりくさったぞ、いい面の皮とは我《おれ》がこと、さあさあ一所に来てくれ来てくれ、為右衛門様円道様が連れて来いとの御命令《おいいつけ》だわ、ええびっくりした、雨戸が飛んで行《い》てしもうたのか、これだもの塔が堪るものか、話しする間にももう倒れたか折れたか知れぬ、ぐずぐずせずと身支度せい、はやくはやくと急《せ》り立つれば、傍から女房も心配げに、出て行かるるなら途中が危険《あぶな》い、腐ってもあの火事頭巾、あれを出しましょ冠《かぶ》っておいでなされ、何が飛んで来るか知れたものではなし、外見《みえ》よりは身が大切《だいじ》、いくら襤褸《ぼろ》でも仕方ない刺子|絆纏《ばんてん》も上に被《き》ておいでなされ、と戸棚がたがた明けにかかるを、十兵衛不興げの眼でじっと見ながら、ああ構うてくれずともよい、出ては行かぬわ、風が吹いたとて騒ぐには及ばぬ、七蔵殿御苦労でござりましたが塔は大丈夫倒れませぬ、なんのこれほどの暴風雨で倒れたり折れたりするような脆《もろ》いものではござりませねば、十兵衛が出かけてまいるにも及びませぬ、円道様にも為右衛門様にもそう云うて下され、大丈夫、大丈夫でござります、と泰然《おちつき》はらって身動きもせず答うれば、七蔵少し膨《ふく》れ面《つら》して、まあともかくも我と一緒に来てくれ、来て見るがよい、あの塔のゆさゆさきちきちと動くさまを、ここにいて目に見ねばこそ威張って居らるれ、御開帳の幟《のぼり》のように頭を振って居るさまを見られたらなんぼ十兵衛殿|寛濶《おうよう》な気性でも、お気の毒ながら魂魄《たましい》がふわりふわりとならるるであろう、蔭で強いのが役にはたたぬ、さあさあ一所に来たり来たり、それまた吹くわ、ああ恐ろしい、なかなか止みそうにもない風の景色、円道様も為右衛門様も定めし肝を煎《い》っておらるるじゃろ、さっさと頭巾なり絆纏なり冠るとも被《き》るともして出かけさっしゃれ、とやり返す。大丈夫でござりまする、御安心なさってお帰り、と突っぱねる。その安心がそう手易《たやす》くはできぬわい、とうるさく云う。大丈夫でござりまする、と同じことをいう。末には七蔵|焦《じ》れこんで、なんでもかでも来いというたら来い、我の言葉とおもうたら違うぞ円道様為右衛門様の御命令《おいいつけ》じゃ、と語気あらくなれば十兵衛も少し勃然《むっ》として、我《わし》は円道様為右衛門様から五重塔建ていとは命令《いいつ》かりませぬ、お上人様は定めし風が吹いたからとて十兵衛よべとはおっしゃりますまい、そのような情ないことを云うては下さりますまい、もしもお上人様までが塔|危《あぶな》いぞ十兵衛呼べと云わるるようにならば、十兵衛一期の大事、死ぬか生きるかの瀬門《せと》に乗っかかる時、天命を覚悟して駈けつけましょうなれど、お上人様が一言半句十兵衛の細工をお疑いなさらぬ以上は何心配のこともなし、余の人たちが何を云わりょうと、紙を材《き》にして仕事もせず魔術《てずま》も手抜きもしていぬ十兵衛、天気のよい日と同じことに雨の降る日も風の夜も楽々としておりまする、暴風雨が怖《こわ》いものでもなければ地震が怖うもござりませぬと円道様にいうて下され、と愛想なく云い切るにぞ、七蔵仕方なく風雨の中を駈け抜けて感応寺に帰りつき円道為右衛門にこのよし云えば、さてもその場に臨んでの知恵のない奴め、なぜその時に上人様が十兵衛来いとの仰せじゃとは云わぬ、あれあれあの揺るる態《さま》を見よ、汝《きさま》までがのっそりに同化《かぶ》れて寛怠過ぎた了見じゃ、是非はない、も一度行って上人様のお言葉じゃと欺誑《たばか》り、文句いわせず連れて来い、と円道に烈しく叱られ、忌々《いまいま》しさに独語《つぶや》きつつ七蔵ふたたび寺門を出でぬ。

     其三十四

 さあ十兵衛、今度は是非に来よ四の五のは云わせぬ、上人様のお召しじゃぞ、と七蔵|爺《じじ》いきりきって門口から我鳴《がな》れば、十兵衛聞くより身を起して、なにあの、上人様のお召しなさるとか、七蔵殿それは真実《まこと》でござりまするか、ああなさけない、何ほど風の強ければとて頼みきったる上人様までが、この十兵衛の一心かけて建てたものを脆《もろ》くも破壊《こわ》るるかのように思し召されたか口惜しい、世界に我を慈悲の眼で見て下さるるただ一つの神とも仏ともおもうていた上人様にも、真底からはわが手腕《うで》たしかと思われざりしか、つくづく頼もしげなき世間、もう十兵衛の生き甲斐なし、たまたま当時に双《なら》
前へ 次へ
全36ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング