びなき尊《たっと》き智識に知られしを、これ一生の面目とおもうて空《あだ》に悦《よろこ》びしも真にはかなきしばしの夢、嵐《あらし》の風のそよと吹けば丹誠凝らせしあの塔も倒れやせんと疑わるるとは、ええ腹の立つ、泣きたいような、それほど我《おれ》は腑《ふ》のない奴《やつ》か、恥をも知らぬ奴《やっこ》と見ゆるか、自己《おのれ》がしたる仕事が恥辱《はじ》を受けてものめのめ面《つら》押し拭《ぬぐ》うて自己は生きて居るような男と我は見らるるか、たとえばあの塔倒れた時生きていようか生きたかろうか、ええ口惜しい、腹の立つ、お浪、それほど我が鄙《さも》しかろうか、あゝあゝ生命《いのち》ももういらぬ、わが身体にも愛想の尽きた、この世の中から見放された十兵衛は生きて居るだけ恥辱をかく苦悩《くるしみ》を受ける、ええいっそのこと塔も倒れよ暴風雨もこの上烈しくなれ、少しなりともあの塔に損じのできてくれよかし、空吹く風も地《つち》打つ雨も人間《ひと》ほど我には情《つれ》なからねば、塔|破壊《こわ》されても倒されても悦びこそせめ恨みはせじ、板一枚の吹きめくられ釘《くぎ》一本の抜かるるとも、味気なき世に未練はもたねばものの見事に死んで退《の》けて、十兵衛という愚魯漢《ばかもの》は自己が業の粗漏《てぬかり》より恥辱を受けても、生命惜しさに生存《いきながら》えて居るような鄙劣《けち》な奴《やつ》ではなかりしか、かかる心をもっていしかと責めては後にて弔《とむら》われん、一度はどうせ捨つる身の捨て処よし捨て時よし、仏寺を汚すは恐れあれどわが建てしもの壊《こわ》れしならばその場を一歩立ち去り得べきや、諸仏菩薩もお許しあれ、生雲塔の頂上《てっぺん》より直ちに飛んで身を捨てん、投ぐる五尺の皮嚢《かわぶくろ》は潰《やぶ》れて醜かるべきも、きたなきものを盛ってはおらず、あわれ男児《おとこ》の醇粋《いっぽんぎ》、清浄《しょうじょう》の血を流さんなれば愍然《ふびん》ともこそ照覧あれと、おもいしことやら思わざりしや十兵衛自身も半分知らで、夢路をいつの間にかたどりし、七蔵にさえどこでか分れて、ここは、おお、それ、その塔なり。
 上りつめたる第五層の戸を押し明けて今しもぬっと十兵衛半身あらわせば、礫《こいし》を投ぐるがごとき暴雨の眼も明けさせず面を打ち、一ツ残りし耳までもちぎらんばかりに猛風の呼吸《いき》さえさせず吹きかくるに、思わず一足退きしが屈せず奮《ふる》って立ち出でつ、欄を握《つか》んできっと睥《にら》めば天《そら》は五月《さつき》の闇《やみ》より黒く、ただ囂々《ごうごう》たる風の音のみ宇宙に充《み》ちて物騒がしく、さしも堅固の塔なれど虚空に高く聳《そび》えたれば、どうどうどっと風の来るたびゆらめき動きて、荒浪の上に揉《も》まるる棚《たな》なし小舟《おぶね》のあわや傾覆《くつがえ》らん風情、さすが覚悟を極めたりしもまた今さらにおもわれて、一期の大事死生の岐路《ちまた》と八万四千の身の毛よだたせ牙|咬《か》みしめて眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、いざその時はと手にして来し六分鑿《ろくぶのみ》の柄忘るるばかり引っ握んでぞ、天命を静かに待つとも知るや知らずや、風雨いとわず塔の周囲《めぐり》を幾たびとなく徘徊《はいかい》する、怪しの男一人ありけり。

     其三十五

 去る日の暴風雨《あらし》は我ら生まれてから以来《このかた》第一の騒ぎなりしと、常は何事に逢うても二十年前三十年前にありし例《ためし》をひき出して古きを大げさに、新しきをわけもなく云い消す気質《かたぎ》の老人《としより》さえ、真底|我《が》折《お》って噂し合えば、まして天変地異をおもしろずくで談話《はなし》の種子《たね》にするようの剽軽《ひょうきん》な若い人は分別もなく、後腹の疾《や》まぬを幸い、どこの火の見が壊れたりかしこの二階が吹き飛ばされたりと、他《ひと》の憂い災難をわが茶受けとし、醜態《ざま》を見よ馬鹿欲から芝居の金主して何某《なにがし》め痛い目に逢うたるなるべし、さても笑止あの小屋の潰《つぶ》れ方はよ、また日ごろより小面憎かりし横町の生花の宗匠が二階、お神楽《かぐら》だけのことはありしも気味《きび》よし、それよりは江戸で一二といわるる大寺の脆く倒れたも仔細こそあれ、実は檀徒《だんと》から多分の寄附金集めながら役僧の私曲《わたくし》、受負師の手品、そこにはそこのありし由、察するに本堂のあの太い柱も桶《おけ》でがなあったろうなんどとさまざまの沙汰に及びけるが、いずれも感応寺生雲塔の釘一本ゆるまず板一枚|剥《は》がれざりしには舌を巻きて讃歎し、いや彼塔《あれ》を作った十兵衛というはなんとえらいものではござらぬか、あの塔倒れたら生きてはいぬ覚悟であったそうな、すでのことに鑿《のみ》啣
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