勝《まさ》るものなし、ことさら塵土に埋もれて光も放たず終るべかりし男を拾いあげられて、心の宝珠《たま》の輝きを世に発出《いだ》されし師の美徳、困苦に撓《たゆ》まず知己に酬《むく》いてついにし遂げし十兵衛が頼もしさ、おもしろくまた美わしき奇因縁なり妙因縁なり、天のなせしか人のなせしかはたまた諸天善神の蔭《かげ》にて操りたまいしか、屋《おく》を造るに巧妙《たくみ》なりし達膩伽尊者《たにかそんじゃ》の噂はあれど世尊《せそん》在世の御時にもかく快きことありしをいまだきかねば漢土《から》にもきかず、いで落成の式あらば我|偈《げ》を作らん文を作らん、我歌をよみ詩を作《な》して頌《しょう》せん讃せん詠ぜん記せんと、おのおの互いに語り合いしは欲のみならぬ人間《ひと》の情の、やさしくもまた殊勝なるに引き替えて、測りがたきは天の心、円道為右衛門二人が計らいとしていと盛んなる落成式|執行《しゅうぎょう》の日もほぼ定まり、その日は貴賤男女の見物をゆるし貧者に剰《あま》れる金を施し、十兵衛その他を犒《ねぎ》らい賞する一方には、また伎楽《ぎがく》を奏して世に珍しき塔供養あるべきはずに支度とりどりなりし最中、夜半の鐘の音の曇って平日《つね》には似つかず耳にきたなく聞えしがそもそも、漸々《ぜんぜん》あやしき風吹き出して、眠れる児童《こども》も我知らず夜具踏み脱ぐほど時候生暖かくなるにつれ、雨戸のがたつく響き烈《はげ》しくなりまさり、闇に揉《も》まるる松柏の梢《こずえ》に天魔の号《さけ》びものすごくも、人の心の平和を奪え平和を奪え、浮世の栄華に誇れる奴らの胆《きも》を破れや睡《ねむ》りを攪《みだ》せや、愚物の胸に血の濤《なみ》打たせよ、偽物の面の紅き色|奪《と》れ、斧《おの》持てる者斧を揮《ふる》え、矛《ほこ》もてるもの矛を揮え、汝《なんじ》らが鋭《と》き剣《つるぎ》は餓《う》えたり汝ら剣に食をあたえよ、人の膏血《あぶら》はよき食なり汝ら剣にあくまで喰わせよ、あくまで人の膏膩《あぶら》を餌《か》えと、号令きびしく発するや否、猛風一陣どっと起って、斧をもつ夜叉《やしゃ》矛もてる夜叉餓えたる剣もてる夜叉、皆一斉に暴《あ》れ出しぬ。

     其三十二

 長夜の夢を覚まされて江戸四里四方の老若男女、悪風来たりと驚き騒ぎ、雨戸の横柄子《よこざる》しっかと※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》せ、辛張り棒を強く張れと家々ごとに狼狽《うろた》ゆるを、可愍《あわれ》とも見ぬ飛天夜叉王、怒号の声音《こわね》たけだけしく、汝ら人を憚《はばか》るな、汝ら人間《ひと》に憚られよ、人間は我らを軽《かろ》んじたり、久しく我らを賤《いや》しみたり、我らに捧《ささ》ぐべきはずの定めの牲《にえ》を忘れたり、這《は》う代りとして立って行く狗《いぬ》、驕奢《おごり》の塒巣《ねぐら》作れる禽《とり》、尻尾なき猿、物言う蛇、露|誠実《まこと》なき狐の子、汚穢《けがれ》を知らざる豕《いのこ》の女《め》、彼らに長く侮られてついにいつまで忍び得ん、我らを長く侮らせて彼らをいつまで誇らすべき、忍ぶべきだけ忍びたり誇らすべきだけ誇らしたり、六十四年はすでに過ぎたり、我らを縛せし機運の鉄鎖、我らを囚《とら》えし慈忍の岩窟《いわや》はわが神力にてちぎり棄《す》てたり崩潰《くずれ》さしたり、汝ら暴《あ》れよ今こそ暴れよ、何十年の恨みの毒気を彼らに返せ一時に返せ、彼らが驕慢《ほこり》の気の臭さを鉄囲山外《てついさんげ》に攫《つか》んで捨てよ、彼らの頭《こうべ》を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味のよさを彼らが胸に試みよ、惨酷《ざんこく》の矛、瞋恚《しんい》の剣の刃糞《はくそ》と彼らをなしくれよ、彼らが喉《のんど》に氷を与えて苦寒に怖れ顫《わなな》かしめよ、彼らが胆に針を与えて秘密の痛みに堪えざらしめよ、彼らが眼前《めさき》に彼らが生《な》したる多数《おおく》の奢侈《しゃし》の子孫を殺して、玩物《がんぶつ》の念を嗟歎《さたん》の灰の河に埋めよ、彼らは蚕児《かいこ》の家を奪いぬ汝ら彼らの家を奪えや、彼らは蚕児の知恵を笑いぬ汝ら彼らの知恵を讃せよ、すべて彼らの巧みとおもえる知恵を讃せよ、大とおもえる意《こころ》を讃せよ、美わしとみずからおもえる情を讃せよ、協《かな》えりとなす理を讃せよ、剛《つよ》しとなせる力を讃せよ、すべては我らの矛の餌《え》なれば、剣の餌なれば斧の餌なれば、讃して後に利器《えもの》に餌《か》い、よき餌をつくりし彼らを笑え、嬲《なぶ》らるるだけ彼らを嬲れ、急に屠《ほふ》るな嬲り殺せ、活《い》かしながらに一枚一枚皮を剥《は》ぎ取れ、肉を剥ぎとれ、彼らが心臓《しん》を鞠《まり》として蹴よ、枳棘《からたち》をもて背を鞭《う》てよ、歎息の呼吸《いき》涙の水、動悸《どうき》
前へ 次へ
全36ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング