《きれい》にしようよ、アハハハと笑えばお吉も笑いながら、そうしたらまた不潔不潔と厳しくお叱《いじ》めなさるか知れぬ、と互いに二ツ三ツ冗話《むだばな》しして後、お吉少しく改まり、清吉は眠《ね》ておりまするか、どういう様子か見てもやりたし、心にかかれば参りました、と云えば鋭次も打ち頷《うなず》き、清は今がたすやすや睡《ね》ついて起きそうにもない容態じゃが、疵《きず》というて別にあるでもなし頭の顱骨《さら》を打ち破《わ》ったわけでもなければ、整骨医師《ほねつぎいしゃ》の先刻《さっき》云うには、ひどく逆上したところを滅茶滅茶に撲《う》たれたため一時は気絶までもしたれ、保証《うけあい》大したことはない由、見たくばちょっと覗《のぞ》いて見よ、と先に立って導く後につき行くお吉、三畳ばかりの部屋の中に一切夢で眠り居る清吉を見るに、顔も頭も膨《は》れ上りて、このように撲《う》ってなしたる鋭次の酷《むご》さが恨めしきまで可憫《あわれ》なる態《さま》なれど、済んだことの是非もなく、座に戻って鋭次に対《むか》い、我夫《うち》では必ず清吉がよけいな手出しに腹を立ち、お上人様やら十兵衛への義理をかねて酷く叱るか出入りを禁《と》むるか何とかするでござりましょうが、元はといえば清吉が自分の意恨でしたではなし、つまりは此方《こち》のことのため、筋の違った腹立ちをついむらむらとしたのみなれば、妾《わたし》はどうも我夫のするばかりを見て居るわけには行かず、ことさら少しわけあって妾がどうとかしてやらねばこの胸の済まぬ仕誼《しぎ》もあり、それやこれやをいろいろと案じた末に浮んだは一年か半年ほど清吉に此地《こち》退《の》かすること、人の噂も遠のいて我夫の機嫌も治《なお》ったら取り成しようは幾らもあり、まずそれまでは上方あたりに遊んで居るようしてやりたく、路用の金も調《こしら》えて来ましたれば少しなれどもお預け申しまする、どうぞよろしく云い含めて清吉めに与《や》って下さりませ、我夫はあの通り表裏のない人、腹の底にはどう思っても必ず辛く清吉に一旦あたるに違いなく、未練げなしに叱りましょうが、その時何と清吉がたとい云うても取り上げぬは知れたこと、傍から妾が口を出しても義理は義理なりゃしようはなし、さりとて欲でしでかした咎《とが》でもないに男一人の寄りつく島もないようにして知らぬ顔ではどうしても妾が居られませぬ、彼《あれ》が一人の母のことは彼さえいねば我夫にも話して扶助《たすく》るに厭は云わせまじく、また厭というような分らぬことを云いもしますまいなれば掛念《けねん》はなけれど、妾が今夜来たことやら蔭《かげ》で清をばいたわることは、我夫へは当分|秘密《ないしょ》にして。わかった、えらい、もう用はなかろう、お帰りお帰り、源太が大抵来るかも知れぬ、撞見《でっくわ》しては拙《まず》かろう、と愛想はなけれど真実はある言葉に、お吉|嬉《うれ》しく頼みおきて帰れば、その後へ引きちがえて来る源太、はたして清吉に、出入りを禁《と》むる師弟の縁|断《き》るとの言い渡し。鋭次は笑って黙り、清吉は泣いて詫びしが、その夜源太の帰りしあと、清吉鋭次にまた泣かせられて、狗《いぬ》になっても我ゃ姉御夫婦の門辺は去らぬと唸《うな》りける。
 四五日過ぎて清吉は八五郎に送られ、箱根の温泉《いでゆ》を志して江戸を出でしが、それよりたどる東海道いたるは京か大阪の、夢はいつでも東都《あずま》なるべし。

     其三十

 十兵衛傷を負うて帰ったる翌朝、平生《いつも》のごとく夙《と》く起き出づればお浪驚いて急にとどめ、まあ滅相な、ゆるりと臥《やす》んでおいでなされおいでなされ、今日は取りわけ朝風の冷たいに破傷風にでもなったら何となさる、どうか臥んでいて下され、お湯ももうじき沸きましょうほどに含嗽手水《うがいちょうず》もそこで妾がさせてあげましょう、と破れ土竈《べっつい》にかけたる羽虧《はか》け釜《がま》の下|焚《た》きつけながら気を揉《も》んで云えど、一向平気の十兵衛笑って、病人あしらいにされるまでのことはない、手拭だけを絞ってもらえば顔も一人で洗うたが好い気持じゃ、と箍《たが》の緩《ゆる》みし小盥《こだらい》にみずから水を汲み取りて、別段悩める容態《ようす》もなく平日《ふだん》のごとく振舞えば、お浪は呆《あき》れかつ案ずるに、のっそり少しも頓着《とんじゃく》せず朝食《あさめし》終《しも》うて立ち上り、いきなり衣物を脱ぎ捨てて股引《ももひき》腹掛け着けにかかるを、とんでもないことどこへ行かるる、何ほど仕事の大事じゃとて昨日の今日は疵口の合いもすまいし痛みも去るまじ、じっとしていよ身体を使うな、仔細はなけれど治癒《なお》るまでは万般《よろず》要慎《つつしみ》第一と云われたお医者様の言葉さえあるに、無理|圧《お》しして感
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