分出入りならぬ由云いに鋭次がところへ行かんとせし矢先であれど、視ればわが子を除いては阿弥陀《あみだ》様よりほかに親しい者もなかるべきか弱き婆のあわれにて、我《われ》清吉を突き放さば身は腰弱弓の弦《つる》に断《き》れられし心地して、在るに甲斐なき生命《いのち》ながらえんに張りもなく的もなくなり、どれほどか悲しみ歎いて多くもあらぬ余生を愚痴の涙《なんだ》の時雨《しぐれ》に暮らし、晴れ晴れとした気持のする日もなくて終ることならんと、思いやれば思いやるだけ憫然《ふびん》さの増し、煙草|捻《ひね》ってつい居るに、婆《ばば》は少しくにじり出で、夜分まいりましてまことに済みませんが、あの少しお願い申したいわけのござりまして、ハイハイ、もう御存知でもござりましょうがあの清吉めがとんだことをいたしましたそうで、ハイハイ、鉄五郎様から大概は聞きましたが、平常《ふだん》からして気の逸《はや》い奴《やつ》で、じきに打《ぶ》つの斫《き》るのと騒ぎましてそのたびにひやひやさせまする、お蔭《かげ》さまで一人前にはなっておりましてもまだ児童《がき》のような真一酷《まいっこく》、悪いことや曲ったことは決してしませぬが取り上《のぼ》せては分別のなくなる困った奴《やっこ》で、ハイハイ、悪気は夢さらない奴《やつ》でござります、ハイハイそれは御存知で、ハイありがとうござります、どういう筋で喧嘩をいたしましたか知りませぬが大それた手斧《ちょうな》なんぞを振り舞わしましたそうで、そうききました時は私が手斧で斫られたような心持がいたしました、め組の親分とやらが幸い抱き留めて下されましたとか、まあせめてもでござります、相手が死にでもしましたら彼《あれ》めは下手人、わたくしは彼を亡くして生きて居る瀬はござりませぬ、ハイありがとうござります、彼めが幼少《ちいさい》ときはひどい虫持で苦労をさせられましたも大抵ではござりませぬ、ようやく中山の鬼子母神様の御利益《ごりやく》で満足には育ちましたが、癒《なお》りましたら七歳《ななつ》までにお庭の土を踏ませましょうと申しておきながら、ついなにかにかまけてお礼参りもいたさせなかったその御罰か、丈夫にはなりましたがあの通りの無鉄砲、毎々お世話をかけまする、今日も今日とて鉄五郎様がこれこれと掻《か》い摘《つま》んで話されました時の私のびっくり、刃物を準備《ようい》までしてと聞いた時には、ええまたかと思わずどっきり胸も裂けそうになりました、め組の親分様とかが預かって下されたとあれば安心のようなものの、清めは怪我はいたしませぬかと聞けば鉄様の曖昧《あいまい》な返辞、別条はない案じるなと云わるるだけになお案ぜられ、その親分の家を尋ぬれば、そこへ汝《おまえ》が行ったがよいか行かぬがよいか我《おれ》には分らぬ、ともかくも親方様のところへ伺って見ろと云いっ放しで帰ってしまわれ、なおなお胸がしくしく痛んでいても起っても居られませねば、留守を隣家《となり》の傘張りに頼んでようやく参りました、どうかめ組の親分とやらの家を教えて下さいまし、ハイハイすぐにまいりまするつもりで、どんな態《ざま》しておりまするか、もしやかえって大怪我などして居るのではござりますまいか、よいものならば早う逢《あ》って安堵《あんど》しとうござりまするし喧嘩の模様も聞きとうござりまする、大丈夫曲ったことはよもやいたすまいと思うておりまするが若い者のこと、ひょっと筋の違った意趣ででもしたわけなら、相手の十兵衛様にまずこの婆が一生懸命で謝罪り、婆はたといどうされても惜しくない老耄《おいぼれ》、生先《おいさき》の長い彼めが人様に恨まれるようなことのないようにせねばなりませぬ、とおろおろ涙になっての話し。始終を知らで一[#(ト)]筋にわが子をおもう老いの繰言、この返答には源太こまりぬ。

     其二十九

 八五郎そこに居るか、誰か来たようだ明けてやれ、と云われて、なんだ不思議な、女らしいぞと口の中《うち》で独語《つぶやき》ながら、誰だ女嫌いの親分のところへ今ごろ来るのは、さあはいりな、とがらりと戸を引き退《の》くれば、八ッさんお世話、と軽い挨拶、提灯吹き滅《け》して頭巾を脱ぎにかかるは、この盆にもこの正月にも心付けしてくれたお吉と気がついて八五郎めんくらい、素肌に一枚どてらの袵《まえ》広がって鼠色《ねずみ》になりしふんどしの見ゆるを急に押し隠しなどしつ、親分、なんの、あの、なんの姉御だ、と忙《せわ》しく奥へ声をかくるに、なんの尽しで分る江戸ッ児。おおそうか、お吉来たの、よく来た、まあそこらの塵埃《ごみ》のなさそうなところへ坐ってくれ、油虫が這《は》って行くから用心しな、野郎ばかりの家は不潔《きたない》のが粧飾《みえ》だから仕方がない、我《おれ》も汝《おまえ》のような好い嚊《かか》でも持ったら清潔
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