拳《は》り殺すぞ、馬鹿め。親分、情ない、ここをここを放してくれ。馬鹿め。ええ分らねえ、親分、あいつを活《い》かしてはおかれねえのだ。馬鹿野郎め、べそをかくのか、おとなしくしなければまだ打《ぶ》つぞ。親分|酷《ひど》い。馬鹿め、やかましいわ、拳り殺すぞ。あんまり分らねえ、親分。馬鹿め、それ打つぞ。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親。馬鹿め。放。馬鹿め。お。馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め、醜態《ざま》を見ろ、おとなしくなったろう、野郎我の家へ来い、やいどうした、野郎、やあこいつは死んだな、つまらなく弱い奴だな、やあい、どいつか来い、肝心の時は逃げ出して今ごろ十兵衛が周囲《まわり》に蟻《あり》のように群《たか》って何の役に立つ、馬鹿ども、こっちには亡者《もうじゃ》ができかかって居るのだ、鈍遅《どじ》め、水でも汲んで来て打っ注《か》けてやれい、落ちた耳を拾って居る奴があるものか、白痴《たわけ》め、汲んで来たか、関《かま》うことはない、一時に手桶《ておけ》の水みんな面へ打つけろ、こんな野郎は脆く生きるものだ、それ占めた、清吉ッ、しっかりしろ、意地のねえ、どれどれこいつは我が背負って行ってやろう、十兵衛が肩の疵《きず》は浅かろうな、むむ、よしよし、馬鹿どもさようなら。
其二十六
源太居るかとはいり来たる鋭次を、お吉立ち上って、おお親分さま、まあまあ此方《こち》へと誘《いざな》えば、ずっと通って火鉢の前に無遠慮の大胡坐《おおあぐら》かき、汲んで出さるる桜湯を半分ばかり飲み干してお吉の顔を視、面色《いろ》が悪いがどうかしたか、源太はどこぞへ行ったのか、定めしもう聴いたであろうが清吉めがつまらぬことをしでかしての、それゆえちょっと話があって来たが、むむそうか、もう十兵衛がところへ行ったと、ハハハ、敏捷《すばや》い敏捷い、さすがに源太だわ、我《おれ》の思案より先に身体がとっくに動いて居るなぞは頼もしい、なあにお吉心配することはない、十兵衛と御上人様に源太が謝罪《わび》をしてな、自分の示しが足らなかったで手下《て》の奴がとんだ心得違いをしました。幾重《いくえ》にも勘弁して下されと三ツ四ツ頭を下げれば済んでしまうことだわ、案じ過しはいらぬもの、それでも先方《さき》がぐずぐずいえば正面《まとも》に源太が喧嘩を買って破裂《ばれ》の始末をつければよいさ、薄々聴いた噂では十兵衛も耳朶《みみたぶ》の一ツや半分|斫《き》り奪《と》られても恨まれぬはず、随分清吉の軽躁行為《おっちょこちょい》もちょいとおかしないい洒落か知れぬ、ハハハ、しかし憫然《かわいそ》に我の拳固を大分|食《くら》ってうんうん苦しがって居るばかりか、十兵衛を殺した後はどう始末が着くと我に云われてようやく悟ったかして、ああ悪かった、逸《はや》り過ぎた間違ったことをした、親方に頭を下げさするようなことをしたかああ済まないと、自分の身体《みうち》の痛いのより後悔にぼろぼろ涙をこぼしている愍然《ふびん》さは、なんと可愛い奴ではないか、のうお吉、源太は酷《むご》く清吉を叱って叱って十兵衛がとこへ謝罪《あやまり》に行けとまで云うか知らぬが、それは表向きの義理なりゃ是非はないが、ここは汝《おまえ》の儲《もう》け役、あいつをどうか、なあそれ、よしか、そこは源太を抱き寝するほどのお吉様にわからぬことはない寸法か、アハハハハ、源太がいないで話も要《い》らぬ、どれ帰ろうかい御馳走は預けておこう、用があったらいつでもおいで、とぼつぼつ語って帰りし後、思えば済まぬことばかり。女の浅き心から分別もなく清吉に毒づきしが、逸りきったる若き男の間違いし出して可憫《あわれ》や清吉は自己《おのれ》の世を狭《せば》め、わが身は大切《だいじ》の所天《おっと》をまで憎うてならぬのっそりに謝罪らするようなり行きしは、時の拍子の出来事ながらつまりはわが口より出し過失《あやまち》、兎せん角せん何とすべきと、火鉢の縁《ふち》に凭《もた》する肘《ひじ》のついがっくりと滑《すべ》るまで、我を忘れて思案に思案凝らせしが、思い定めて、おおそうじゃと、立って箪笥《たんす》の大抽匣《おおひきだし》、明けて麝香《じゃこう》の気《か》とともに投げ出し取り出すたしなみの、帯はそもそも此家《ここ》へ来し嬉し恥かし恐ろしのその時締めし、ええそれよ。ねだって買ってもろうたる博多に繻子《しゅす》に未練もなし、三枚重ねに忍ばるる往時《むかし》は罪のない夢なり、今は苦労の山繭縞《やままゆじま》、ひらりと飛ばす飛八丈《とびはちじょう》このごろ好みし毛万筋、千筋《ちすじ》百筋《ももすじ》気は乱るとも夫おもうはただ一筋、ただ一筋の唐七糸帯《からしゅっちん》は、お屋敷奉公せし叔母が紀念《かたみ》と大切《だいじ》に秘蔵《ひめ》たれど何か厭《いと》わ
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