までいしことなれど、聞けばなるほどどうあっても堪忍《がまん》のならぬのっそりの憎さ、生命《いのち》と頼むわが親方に重々恩を被《き》た身をもって無遠慮過ぎた十兵衛めが処置振り、あくまで親切真実の親方の顔踏みつけたる憎さも憎しどうしてくりょう。
ムム親方と十兵衛とは相撲《すもう》にならぬ身分の差《ちが》い、のっそり相手に争っては夜光の璧《たま》を小礫《いしころ》に擲《ぶ》つけるようなものなれば、腹は十分立たれても分別強く堪《こら》えて堪えて、誰にも彼にも欝憤《うっぷん》を洩《も》らさず知らさず居らるるなるべし、ええ親方は情ない、ほかの奴はともかく清吉だけには知らしてもよさそうなものを、親方と十兵衛では此方《こち》が損、我《おれ》とのっそりなら損はない、よし、十兵衛め、ただ置こうやと逸《はや》りきったる鼻先思案。姉御、知らぬ中は是非がない、堪忍《かに》して下され、様子知っては憚《はばか》りながらもう叱られてはおりますまい、この清吉が女郎買いの供するばかりを能の野郎か野郎でないか見ていて下され、さようならば、と後声《しりごえ》烈《はげ》しく云い捨てて格子戸《こうしど》がらり明けっ放し、草履《ぞうり》もはかず後も見ず風より疾《はや》く駆け去れば、お吉今さら気遣《きづか》わしくつづいて追っかけ呼びとむる二[#(タ)]声三声、四声めにははや影さえも見えずなったり。
其二十五
材《き》を釿《はつ》る斧《よき》の音、板削る鉋《かんな》の音、孔《あな》を鑿《ほ》るやら釘《くぎ》打つやら丁々かちかち響き忙《せわ》しく、木片《こっぱ》は飛んで疾風に木の葉の翻《ひるが》えるがごとく、鋸屑《おがくず》舞って晴天に雪の降る感応寺境内普請場の景況《ありさま》賑《にぎ》やかに、紺の腹掛け頸筋《くびすじ》に喰い込むようなをかけて小胯《こまた》の切り上がった股引《ももひき》いなせに、つっかけ草履の勇み姿、さも怜悧《りこう》げに働くもあり、汚《よご》れ手拭《てぬぐい》肩にして日当りのよき場所に蹲踞《しゃが》み、悠々然と鑿《のみ》を※[#「石+刑」、第3水準1−89−2]《と》ぐ衣服《なり》の垢穢《きたな》き爺《じじ》もあり、道具捜しにまごつく小童《わっぱ》、しきりに木を挽《ひ》く日傭取り、人さまざまの骨折り気遣い、汗かき息張るその中に、総棟梁ののっそり十兵衛、皆の仕事を監督《みまわ》りかたがた、墨壺墨さし矩尺《かね》もって胸三寸にある切組を実物にする指図|命令《いいつけ》。こう截《き》れああ穿《ほ》れ、ここをどうしてどうやってそこにこれだけ勾配《こうばい》もたせよ、孕《はら》みが何寸|凹《くぼ》みが何分と口でも知らせ墨縄《なわ》でも云わせ、面倒なるは板片《いたきれ》に矩尺の仕様を書いても示し、鵜《う》の目|鷹《たか》の目油断なく必死となりてみずから励み、今しも一人の若佼《わかもの》に彫物の画を描きやらんと余念もなしにいしところへ、野猪《いのしし》よりもなお疾く塵土《ほこり》を蹴立てて飛び来し清吉。
忿怒《ふんど》の面火玉のごとくし逆釣ったる目を一段|視開《みひら》き、畜生、のっそり、くたばれ、と大喝すれば十兵衛驚き、振り向く途端にまっ向より岩も裂けよと打ち下すは、ぎらぎらするまで※[#「石+刑」、第3水準1−89−2]ぎ澄ませし釿《ちょうな》を縦にその柄にすげたる大工に取っての刀なれば、何かは堪《たま》らん避くる間足らず左の耳を殺《そ》ぎ落され肩先少し切り割《さ》かれしが、し損じたりとまた踏ん込んで打つを逃げつつ、抛《な》げつくる釘箱|才槌《さいづち》墨壺|矩尺《かねざし》、利器《えもの》のなさに防ぐ術《すべ》なく、身を翻えして退《の》く機《はずみ》に足を突っ込む道具箱、ぐざと踏み貫《ぬ》く五寸釘、思わず転ぶを得たりやと笠《かさ》にかかって清吉が振り冠《かぶ》ったる釿の刃先に夕日の光の閃《きら》りと宿って空に知られぬ電光《いなずま》の、疾《と》しや遅しやその時この時、背面《うしろ》の方に乳虎一声、馬鹿め、と叫ぶ男あって二間丸太に論もなく両臑《もろずね》脆《もろ》く薙《な》ぎ倒せば、倒れてますます怒る清吉、たちまち勃然《むっく》と起きんとする襟元《えりもと》把《と》って、やい我《おれ》だわ、血迷うなこの馬鹿め、と何の苦もなく釿もぎ取り捨てながら上からぬっと出す顔は、八方|睨《にら》みの大眼《おおまなこ》、一文字口怒り鼻、渦巻《うずまき》縮れの両鬢《りょうびん》は不動を欺《あざむ》くばかりの相形《そうぎょう》。
やあ火の玉の親分か、わけがある、打捨《うっちゃ》っておいてくれ、と力を限り払い除《の》けんと※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》き焦燥《あせ》るを、栄螺《さざえ》のごとき拳固《げんこ》で鎮圧《しず》め、ええ、じたばたすれば
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