見たのじゃ、さあ寒いに風邪をひいてはなりませぬ、床にはいって寝て居るがよい、と引き倒すようにして横にならせ、掻巻《かいまき》かけて隙間《すきま》なきよう上から押しつけやる母の顔を見ながら眼をぱっちり、ああ怖《こわ》かった、今よその怖い人が。おゝおゝ、どうかしましたか。大きな、大きな鉄槌《げんのう》で、黙って坐って居る父様の、頭を打って幾つも打って、頭が半分|砕《こわ》れたので坊は大変びっくりした。ええ鶴亀鶴亀、厭なこと、延喜でもないことを云う、と眉《まゆ》を皺《しわ》むる折も折、戸外《おもて》を通る納豆売りの戦《ふる》え声に覚えある奴が、ちェッ忌々《いまいま》しい草鞋《わらじ》が切れた、と打ち独語《つぶや》きて行き過ぐるに女房ますます気色を悪《あ》しくし、台所に出て釜《かま》の下を焚《た》きつくれば思うごとく燃えざる薪《まき》も腹立たしく、引窓の滑《すべ》りよく明かぬも今さらのように焦《じ》れったく、ああ何となく厭な日と思うも心からぞとは知りながら、なお気になることのみ気にすればにや多けれど、また云い出さば笑われんと自分で呵《しか》って平日《いつも》よりは笑顔をつくり言葉にも活気をもたせ、いきいきとして夫をあしらい子をあしらえど、根がわざとせし偽飾《いつわり》なればかえって笑いの尻声が憂愁《うれい》の響きを遺して去る光景《ありさま》の悲しげなるところへ、十兵衛殿お宅か、と押柄《おうへい》に大人びた口ききながらはいり来る小坊主、高慢にちょこんと上り込み、御用あるにつきすぐと来たられべしと前後《あとさき》なしの棒口上。
お浪も不審、十兵衛も分らぬことに思えども辞《いな》みもならねば、はや感応寺の門くぐるさえ無益《むやく》しくは考えつつも、何御用ぞと行って問えば、天地|顛倒《てんどう》こりゃどうじゃ、夢か現《うつつ》か真実か、円道右に為右衛門左に朗円上人|中央《まんなか》に坐したもうて、円道言葉おごそかに、このたび建立なるところの生雲塔の一切工事川越源太に任せられべきはずのところ、方丈|思《おぼ》しめし寄らるることあり格別の御詮議例外の御慈悲をもって、十兵衛その方《ほう》にしかとお任せ相成る、辞退の儀は決して無用なり、早々ありがたく御受け申せ、と云い渡さるるそれさえあるに、上人皺枯れたる御声にて、これ十兵衛よ、思う存分し遂げて見い、よう仕上らば嬉しいぞよ、と荷担《にな》
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