ました、私はもしものことがあれば親方や姉御のためと云や黒煙の煽《あお》りを食っても飛び込むぐらいの了見は持って居るに、畜生ッ、ああ人情《なさけ》ない野郎め、のっそりめ、あいつは火の中へは恩を背負《しょ》っても入りきるまい、ろくな根性はもっていまい、ああ人情ない畜生めだ、と酔いが図らず云い出せし不平の中に潜り込んで、めそめそめそめそ泣き出せば、お吉は夫の顔を見て、例《いつも》の癖が出て来たかと困った風情はしながらも自己の胸にものっそりの憎さがあれば、幾らかは清が言葉を道理《もっとも》と聞く傾きもあるなるべし。
源太は腹に戸締りのなきほど愚《おろ》かならざれば、猪口《ちょく》を擬《さ》しつけ高笑いし、何を云い出した清吉、寝ぼけるな我の前だわ、三の切を出しても初まらぬぞ、その手で女でも口説きやれ、随分ころりと来るであろう、汝《きさま》が惚《のろ》けた小蝶《こちょう》さまのお部屋ではない、アッハハハと戯言《おどけ》を云えばなお真面目に、木※[#「木+患」、第3水準1−86−5]珠《ずずだま》ほどの涙を払うその手をぺたりと刺身皿《さしみざら》の中につっこみ、しゃくり上げ歔欷《しゃくりあげ》して泣き出し、ああ情ない親方、私を酔漢《よっぱらい》あしらいは情ない、酔ってはいませぬ、小蝶なんぞは飲《た》べませぬ、そういえばあいつの面《つら》がどこかのっそりに似て居るようで口惜しくて情ない、のっそりは憎い奴、親方の対《むこ》うを張って大それた、五重の塔を生意気にも建てようなんとは憎い奴憎い奴、親方が和《やさ》し過ぎるので増長した謀反人め、謀反人も明智《あけち》のようなは道理《もっとも》だと伯龍《はくりゅう》が講釈しましたがあいつのようなは大悪|無道《ぶどう》、親方はいつのっそりの頭を鉄扇で打《ぶ》ちました、いつ蘭丸《らんまる》にのっそりの領地を与《や》ると云いました、私は今にもしもあいつが親方の言葉に甘えて名を列《なら》べて塔を建てれば打捨《うっちゃ》ってはおけませぬ、擲《たた》き殺して狗《いぬ》にくれますこういうように擲き殺して、と明徳利《あきどくり》の横面いきなり打《たた》き飛ばせば、砕片《かけら》は散って皿小鉢|跳《おど》り出すやちんからり。馬鹿野郎め、と親方に大喝されてそのままにぐずりと坐《すわ》りおとなしく居るかと思えば、散らかりし還原海苔《もどしのり》の上に額おしつけはや
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