鼾声《いびき》なり。源太はこれに打ち笑い、愛嬌のある阿呆めに掻巻《かいまき》かけてやれ、と云いつつ手酌にぐいと引っかけて酒気を吹くことやや久しく、怒《おこ》って帰って来はしたもののああでは高が清吉同然、さて分別がまだ要《い》るわ。
其十八
源太が怒って帰りし後、腕|拱《こまぬ》きて茫然《ぼうぜん》たる夫の顔をさし覗《のぞ》きて、吐息つくづくお浪は歎じ、親方様は怒らする仕事はつまり手に入らず、夜の眼も合わさず雛形《ひながた》まで製造《こしら》えた幾日の骨折りも苦労も無益《むだ》にした揚句の果てに他《ひと》の気持を悪うして、恩知らず人情なしと人の口端にかかるのはあまりといえば情ない、女の差し出たことをいうとただ一口に云わるるか知らねど、正直|律義《りちぎ》もほどのあるもの、親方様があれほどに云うて下さる異見について一緒にしたとて恥辱《はじ》にはなるまいに、偏僻《かたいじ》張ってなんのつまらぬ意気地立て、それを誰が感心なと褒《ほ》めましょう、親方様の御料簡につけば第一御恩ある親方のお心持もよいわけ、またお前の名も上り苦労骨折りの甲斐も立つわけ、三方四方みな好いになぜその気にはなられぬか、少しもお前の料簡が妾《わたし》の腹には合点《のみこめ》ぬ、よくまあ思案し直して親方様の御異見につい従うては下されぬか、お前が分別さえ更《か》えれば妾がすぐにも親方様のところへ行き、どうにかこうにか謝罪《あやまり》云うて一生懸命精一杯、打《ぶ》たれても擲《たた》かれても動くまいほど覚悟をきめ、謝罪って謝罪って謝罪り貫《ぬ》いたらお情深い親方様が、まさかにいつまで怒ってばかりも居られまい、一時の料簡違いは堪忍《かに》して下さることもあろう、分別しかえて意地|張《ば》らずに、親方様の云われた通りして見る気にはなられぬか、と夫思いの一筋に口説くも女の道理《もっとも》なれど、十兵衛はなお眼も動かさず、ああもう云うてくれるな、ああ、五重塔とも云うてくれるな、よしないことを思いたってなるほど恩知らずとも云わりょう人情なしとも云わりょう、それも十兵衛の分別が足らいででかしたこと、今さらなんとも是非がない、しかし汝《きさま》の云うように思案しかえるはどうしても厭、十兵衛が仕事に手下は使おうが助言《じょごん》は頼むまい、人の仕事の手下になって使われはしょうが助言はすまい、桝組《ますぐみ》も椽配
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