うべ》をおもえば堪忍《がまん》のなろうに精を惜しむな辛防《しんぼう》せよ、よいは[#「よいは」はママ]弁当も松に持たせてやるわ、と苦《にが》くはなけれど効験《ききめ》ある薬の行きとどいた意見に、汗を出して身の不始末を慚《は》ずる正直者の清吉。
姉御、では御厄介《ごやっかい》になってすぐに仕事に突っ走ります、と鷲掴《わしづか》みにした手拭《てぬぐい》で額|拭《ふ》き拭き勝手の方に立ったかとおもえば、もうざらざらざらっと口の中へ打《ぶ》ち込むごとく茶漬飯五六杯、早くも食うてしまって出て来たり、さようなら行ってまいります、と肩ぐるみに頭をついと一ツ下《さ》げて煙草管《きせる》を収め、壺屋《つぼや》の煙草入《りょうさげ》三尺帯に、さすがは気早き江戸ッ子|気質《かたぎ》、草履《ぞうり》つっかけ門口出づる、途端に今まで黙っていたりし女は急に呼びとめて、この二三日にのっそり[#「のっそり」に傍点]めに逢《お》うたか、と石から飛んで火の出しごとく声を迸《はし》らし問いかくれば、清吉ふりむいて、逢いました逢いました、しかも昨日御殿坂で例ののっそりがひとしおのっそりと、往生した鶏《とり》のようにぐたりと首を垂《た》れながら歩行《ある》いて居るを見かけましたが、今度こっちの棟梁《とうりょう》の対岸《むこう》に立ってのっそりの癖に及びもない望みをかけ、大丈夫ではあるものの幾らか棟梁にも姉御にも心配をさせるその面《つら》が憎くって面が憎くって堪《たま》りませねば、やいのっそりめと頭から毒を浴びせてくれましたに、あいつのことゆえ気がつかず、やいのっそりめ、のっそりめと三度めには傍へ行って大声で怒鳴ってやりましたればようやくびっくりして梟《ふくろ》に似た眼で我《ひと》の顔を見つめ、ああ清吉あーにーいかと寝惚声《ねぼけごえ》の挨拶《あいさつ》、やい、汝《きさま》は大分好い男児《おとこ》になったの、紺屋《こうや》の干場へ夢にでも上《のぼ》ったか大層高いものを立てたがって感応寺の和尚様に胡麻を摺《す》り込むという話しだが、それは正気の沙汰か寝惚けてかと冷語《ひやかし》をまっ向からやったところ、ハハハ姉御、愚鈍《うすのろ》い奴というものは正直ではありませんか、なんと返事をするかとおもえば、我《わし》も随分骨を折って胡麻は摺って居るが、源太親方を対岸に立てて居るのでどうも胡麻が摺りづらくて困る、親方がの
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