きもしわが身の急に絞木《しめぎ》にかけて絞めらるるごとき心地のして、思わず知らず夫にすり寄り、それはまあなんということ、親方様があれほどにあなたこなたのためを計って、見るかげもないこの方連れ、云わば一[#(ト)]足に蹴落しておしまいなさるることもなさらばできるこの方連れに、大抵ではないお情をかけて下され、御自分一人でなさりたい仕事をも分けてやろう半口乗せてくりょうと、身に浸みるほどありがたい御親切の御相談、しかもお招喚《よびつけ》にでもなってでのことか、坐蒲団《ざぶとん》さえあげることのならぬこのようなところへわざわざおいでになってのお話し、それを無にしてもったいない、十兵衛厭でござりまするとは冥利《みょうり》の尽きた我儘《わがまま》勝手、親方様の御親切の分らぬはずはなかろうに胴欲なも無遠慮なも大方|程度《ほどあい》のあったもの、これこの妾《わたし》の今着て居るのも去年の冬の取りつきに袷姿《あわせすがた》の寒げなを気の毒がられてお吉様の、縫直《なお》して着よと下されたのとは汝《おまえ》の眼には暎《うつ》らぬか、一方ならぬ御恩を受けていながら親方様の対岸《むこう》へ廻るさえあるに、それを小癪《こしゃく》なとも恩知らずなともおっしゃらず、どこまでも弱い者を愛護《かぼ》うて下さるお仁慈《なさけ》深い御分別にも頼《よ》り縋《すが》らいで一概に厭じゃとは、たとえば真底から厭にせよ記臆《ものおぼえ》のある人間《ひと》の口から出せた言葉でござりまするか、親方様の手前お吉様の所思《おもわく》をもよくとっくりと考えて見て下され、妾はもはやこれから先どの顔さげてあつかましくお吉様のお眼にかかることのなるものぞ、親方様はお胸の広うて、ああ十兵衛夫婦はわけの分らぬ愚か者なりゃ是も非もないと、そのまま何とも思《おぼ》しめされずただ打ち捨てて下さるか知らねど、世間は汝を何と云おう、恩知らずめ義理知らずめ、人情|解《げ》せぬ畜生め、あれ奴《め》は犬じゃ烏じゃと万人の指甲《つめ》に弾《はじ》かれものとなるは必定《ひつじょう》、犬や烏と身をなして仕事をしたとて何の功名《てがら》、欲をかわくな齷齪《あくせく》するなと常々妾に諭《さと》された自分の言葉に対しても恥かしゅうはおもわれぬか、どうぞ柔順《すなお》に親方様の御異見について下さりませ、天に聳《そび》ゆる生雲塔《しょううんとう》は誰々二人で作ったと
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