かりなり。
 上人庭下駄脱ぎすてて上にあがり、さあ汝《そなた》も此方《こち》へ、と云いさして掌《て》に持たれし花を早速《さそく》に釣花活《つりはないけ》に投げこまるるにぞ、十兵衛なかなか怯《お》めず臆《おく》せず、手拭《てぬぐい》で足はたくほどのことも気のつかぬ男とてなすことなく、草履脱いでのっそりと三畳台目の茶室に入りこみ、鼻突き合わすまで上人に近づき坐りて黙々と一礼する態《さま》は、礼儀に嫻《なら》わねど充分に偽飾《いつわり》なき情《こころ》の真実《まこと》をあらわし、幾たびかすぐにも云い出でんとしてなお開きかぬる口をようやくに開きて、舌の動きもたどたどしく、五重の塔の、御願いに出ましたは五重の塔のためでござります、と藪《やぶ》から棒を突き出したように尻《しり》もったてて声の調子も不揃《ふぞろ》いに、辛くも胸にあることを額やら腋《わき》の下の汗とともに絞り出せば、上人おもわず笑いを催され、何か知らねど老衲《わし》をば怖《こわ》いものなぞと思わず、遠慮を忘れてゆるりと話をするがよい、庫裡の土間に坐り込《こ》うで動かずにいた様子では、何か深う思い詰めて来たことであろう、さあ遠慮を捨てて急《せ》かずに、老衲をば朋友《ともだち》同様におもうて話すがよい、とあくまで慈《やさ》しき注意《こころぞえ》。十兵衛|脆《もろ》くも梟《ふくろ》と常々悪口受くる銅鈴眼《すずまなこ》にはや涙を浮めて、はい、はい、はいありがとうござりまする、思い詰めて参上《まい》りました、その五重の塔を、こういう野郎でござります、御覧の通り、のっそり十兵衛と口惜《くや》しい諢名《あだな》をつけられて居る奴《やっこ》でござりまする、しかしお上人様、真実《ほんと》でござりまする、工事《しごと》は下手ではござりませぬ、知っております私《わたく》しは馬鹿でござります、馬鹿にされております、意気地のない奴《やつ》でござります、虚誕《うそ》はなかなか申しませぬ、お上人様、大工はできます、大隅流《おおすみりゅう》は童児《こども》の時から、後藤《ごとう》立川《たてかわ》二ツの流義も合点《がてん》致しておりまする、させて、五重塔の仕事を私にさせていただきたい、それで参上《まい》りました、川越の源太様が積りをしたとは五六日前聞きました、それから私は寝ませぬわ、お上人様、五重塔は百年に一度一生に一度建つものではござりませぬ、恩
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