理をかねて酷く叱るか出入りを禁《と》むるか何とかするでござりませうが、元はといへば清吉が自分の意恨で仕たではなし、畢竟《つまり》は此方の事のため、筋の違つた腹立をついむら/\としたのみなれば、妾は何《どう》も我夫《うち》のするばかりを見て居る訳には行かず、殊更少し訳あつて妾が何《どう》とか為てやらねば此胸の済まぬ仕誼《しぎ》もあり、それやこれやを種※[#二の字点、1−2−22]《いろ/\》と案じた末に浮んだは一年か半年ほど清吉に此地《こち》退かすること、人の噂も遠のいて我夫の機嫌も治つたら取成し様は幾干も有り、まづそれまでは上方あたりに遊んで居るやう為てやりたく、路用の金も調《こしら》へて来ましたれば少しなれども御預け申しまする、何卒宜敷云ひ含めて清吉めに与つて下さりませ、我夫は彼通り表裏の無い人、腹の底には如何思つても必ず辛く清吉に一旦あたるに違ひ無く、未練気なしに叱りませうが、其時何と清吉が仮令云ふても取り上げぬは知れたこと、傍から妾が口を出しても義理は義理なりや仕様は無し、さりとて慾で做出来《しでか》した咎でもないに男一人の寄り付く島も無いやうにして知らぬ顔では如何しても妾が居られませぬ、彼《あれ》が一人の母のことは彼さへ居ねば我夫にも話して扶助《たすく》るに厭は云はせまじく、また厭といふやうな分らぬことを云ひも仕ますまいなれば掛念はなけれど、妾が今夜来たことやら蔭で清をば劬ることは、我夫へは当分|秘密《ないしよ》にして。解つた、えらい、もう用は無からう、お帰り/\、源太が大抵来るかも知れぬ、撞見《でつくわ》しては拙からう、と愛想は無けれど真実はある言葉に、お吉嬉しく頼み置きて帰れば、其後へ引きちがへて来る源太、果して清吉に、出入りを禁《と》むる師弟の縁断るとの言ひ渡し。鋭次は笑つて黙り、清吉は泣て詫びしが、其夜源太の帰りし跡、清吉鋭次にまた泣かせられて、狗《いぬ》になつても我や姉御夫婦の門辺は去らぬと唸りける。
 四五日過ぎて清吉は八五郎に送られ、箱根の温泉《いでゆ》を志して江戸を出しが、夫よりたどる東海道いたるは京か大阪の、夢はいつでも東都《あづま》なるべし。

       其三十

 十兵衞傷を負ふて帰つたる翌朝、平生《いつも》の如く夙《と》く起き出づればお浪驚いて急にとゞめ、まあ滅相な、緩《ゆる》りと臥むでおいでなされおいでなされ、今日は取りわけ朝風の冷たいに破傷風にでもなつたら何となさる、どうか臥むで居て下され、お湯ももう直沸きませうほどに含嗽《うがひ》手水《てうづ》も其所で妾が為せてあげませう、と破土竃《やぶれべつつひ》にかけたる羽虧《はか》け釜の下焚きつけながら気を揉んで云へど、一向平気の十兵衞笑つて、病人あしらひにされるまでの事はない、手拭だけを絞つて貰へば顔も一人で洗ふたが好い気持ぢや、と箍《たが》の緩みし小盥に自ら水を汲み取りて、別段悩める容態《やうす》も無く平日《ふだん》の如く振舞へば、お浪は呆れ且つ案ずるに、のつそり少しも頓着せず朝食《あさめし》終ふて立上り、突然《いきなり》衣物を脱ぎ捨てゝ股引腹掛|着《つけ》にかゝるを、飛んでも無い事何処へ行かるゝ、何程仕事の大事ぢやとて昨日の今日は疵口の合ひもすまいし痛みも去るまじ、泰然《ぢつ》として居よ身体を使ふな、仔細は無けれど治癒《なほ》るまでは万般《よろづ》要慎《つゝしみ》第一と云はれた御医者様の言葉さへあるに、無理圧して感応寺に行かるゝ心か、強過ぎる、仮令行つたとて働きはなるまじ、行かいでも誰が咎めう、行かで済まぬと思はるゝなら妾が一寸《ちよと》一[#(ト)]走り、お上人様の御目にかゝつて三日四日の養生を直※[#二の字点、1−2−22]に願ふて来ましよ、御慈悲深いお上人様の御承知なされぬ気遣ひない、かならず大切《だいじ》にせい軽挙《かるはずみ》すなと仰やるは知れた事、さあ此衣《これ》を着て家に引籠み、せめて疵口《くち》の悉皆《すつかり》密着《くつつ》くまで沈静《おちつい》て居て下され、と只管とゞめ宥め慰め、脱ぎしをとつて復《また》被《き》すれば、余計な世話を焼かずとよし、腹掛着せい、これは要らぬ、と利く右の手にて撥ね退くる。まあ左様云はずと家に居て、とまた打被する、撥ね退くる、男は意気地女は情、言葉あらそひ果しなければ流石にのつそり少し怒つて、訳の分らぬ女の分で邪魔立てするか忌※[#二の字点、1−2−22]しい奴、よし/\頼まぬ一人で着る、高の知れたる蚯蚓膨《みゝずばれ》に一日なりとも仕事を休んで職人共の上《かみ》に立てるか、汝《うぬ》は少《ちつと》も知るまいがの、此十兵衞はおろかしくて馬鹿と常※[#二の字点、1−2−22]云はるゝ身故に職人共が軽う見て、眼の前では我が指揮《さしづ》に従ひ働くやうなれど、蔭では勝手に怠惰《なまけ》るやら譏《そし》るやら散※[#二の字点、1−2−22]に茶にして居て、表面《うはべ》こそ粧《つくろ》へ誰一人真実仕事を好くせうといふ意気組持つて仕てくるゝものは無いは、ゑゝ情無い、如何かして虚飾《みえ》で無しに骨を折つて貰ひたい、仕事に膏《あぶら》を乗せて貰ひたいと、諭せば頭は下げながら横向いて鼻で笑はれ、叱れば口に謝罪られて顔色《かほつき》に怒られ、つく/″\我折つて下手に出れば直と増長さるゝ口惜さ悲しさ辛さ、毎日※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]棟梁※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と大勢に立てられるは立派で可けれど腹の中では泣きたいやうな事ばかり、いつそ穴鑿りで引使はれたはうが苦しうないと思ふ位、其中で何か斯か此日《こゝ》まで運ばして来たに今日休んでは大事の躓き、胸が痛いから早帰りします、頭痛がするで遅くなりましたと皆《みんな》に怠惰《なまけ》られるは必定、其時自分が休んで居れば何と一言云ひ様なく、仕事が雨垂拍子になつて出来べきものも仕損ふ道理、万が一にも仕損じてはお上人様源太親方に十兵衞の顔が向られうか、これ、生きても塔が成《でき》ねばな、此十兵衞は死んだ同然、死んでも業を仕遂げれば汝《うぬ》が夫《おやぢ》は生て居るはい、二寸三寸の手斧傷に臥て居られるか居られぬ歟、破傷風が怖しい歟仕事の出来ぬが怖しい歟、よしや片腕奪られたとて一切成就の暁までは駕籠に乗つても行かでは居ぬ、ましてや是しきの蚯蚓膨に、と云ひつゝお浪が手中より奪ひとつたる腹掛に、左の手を通さんとして顰《しか》むる顔、見るに女房の争へず、争ひまけて傷をいたはり、遂に半天股引まで着せて出しける心の中、何とも口には云ひがたかるべし。
 十兵衞よもや来はせじと思ひ合ふたる職人共、ちらりほらりと辰の刻頃より来て見て吃驚する途端、精出して呉るゝ嬉しいぞ、との一言を十兵衞から受けて皆冷汗をかきけるが、是より一同《みな/\》励み勤め昨日に変る身のこなし、一をきいては三まで働き、二と云はれしには四まで動けば、のつそり片腕の用を欠いて却て多くの腕を得つ日※[#二の字点、1−2−22]|工事《しごと》捗取《はかど》り、肩疵治る頃には大抵塔も成《でき》あがりぬ。

       其三十一

 時は一月の末つ方、のつそり十兵衞が辛苦経営むなしからで、感応寺生雲塔いよ/\物の見事に出来上り、段※[#二の字点、1−2−22]足場を取り除けば次第※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に露るゝ一階一階また一階、五重|巍然《ぎぜん》と聳えしさま、金剛力士が魔軍を睥睨《にら》んで十六丈の姿を現じ坤軸《こんぢく》動《ゆる》がす足ぶみして巌上《いはほ》に突立ちたるごとく、天晴立派に建つたる哉、あら快よき細工振りかな、希有ぢや未曾有ぢや再《また》あるまじと爲右衞門より門番までも、初手のつそりを軽しめたる事は忘れて讚歎すれば、圓道はじめ一山《いつさん》の僧徒も躍りあがつて歓喜《よろこ》び、これでこそ感応寺の五重塔なれ、あら嬉しや、我等が頼む師は当世に肩を比すべき人も無く、八宗九宗の碩徳達《せきとくたち》虎豹鶴鷺《こへうかくろ》と勝ぐれたまへる中にも絶類抜群にて、譬へば獅子王孔雀王、我等が頼む此寺の塔も絶類抜群にて、奈良や京都はいざ知らず上野浅草芝山内、江戸にて此塔《これ》に勝るものなし、殊更塵土に埋もれて光も放たず終るべかりし男を拾ひあげられて、心の宝珠《たま》の輝きを世に発出《いだ》されし師の美徳、困苦に撓《たゆ》まず知己に酬いて遂に仕遂げし十兵衞が頼もしさ、おもしろくまた美はしき奇因縁なり妙因縁なり、天の成せしか人の成せし歟《か》将又諸天善神の蔭にて操り玉ひし歟、屋《をく》を造るに巧妙《たくみ》なりし達膩伽尊者《たにかそんじや》の噂はあれど世尊在世の御時にも如是《かく》快き事ありしを未だきかねば漢土《から》にもきかず、いで落成の式あらば我|偈《げ》を作らむ文を作らむ、我歌をよみ詩を作《な》して頌せむ讚せむ詠ぜむ記せむと、各※[#二の字点、1−2−22]互に語り合ひしは慾のみならぬ人間《ひと》の情の、やさしくもまた殊勝なるに引替へて、測り難きは天の心、圓道爲右衞門二人が計らひとしていと盛んなる落成式|執行《しふぎやう》の日も略定まり、其日は貴賤男女の見物をゆるし貧者に剰《あま》れる金を施し、十兵衞其他を犒《ねぎ》らひ賞する一方には、また伎楽を奏して世に珍しき塔供養あるべき筈に支度とり/″\なりし最中、夜半の鐘の音の曇つて平日《つね》には似つかず耳にきたなく聞えしがそも/\、漸※[#二の字点、1−2−22]《ぜん/\》あやしき風吹き出して、眠れる児童も我知らず夜具踏み脱ぐほど時候生暖かくなるにつれ、雨戸のがたつく響き烈しくなりまさり、闇に揉まるゝ松柏の梢に天魔の号《さけ》びものすごくも、人の心の平和を奪へ平和を奪へ、浮世の栄華に誇れる奴等の胆を破れや睡りを攪《みだ》せや、愚物の胸に血の濤《なみ》打たせよ、偽物の面の紅き色奪れ、斧持てる者斧を揮へ、矛もてるもの矛を揮へ、汝等が鋭《と》き剣は餓えたり汝等剣に食をあたへよ、人の膏血《あぶら》はよき食なり汝等剣に飽まで喰はせよ、飽まで人の膏膩を餌《か》へと、号令きびしく発するや否、猛風一陣どつと起つて、斧をもつ夜叉矛もてる夜叉餓えたる剣もてる夜叉、皆一斉に暴れ出しぬ。

       其三十二

 長夜の夢を覚まされて江戸四里四方の老若男女、悪風来りと驚き騒ぎ、雨戸の横柄子《よこざる》緊乎《しつか》と挿せ、辛張棒を強く張れと家※[#二の字点、1−2−22]ごとに狼狽《うろた》ゆるを、可愍《あはれ》とも見ぬ飛天夜叉王、怒号の声音たけ/″\しく、汝等人を憚るな、汝等|人間《ひと》に憚られよ、人間は我等を軽んじたり、久しく我等を賤みたり、我等に捧ぐべき筈の定めの牲《にへ》を忘れたり、這ふ代りとして立つて行く狗、驕奢《おごり》の塒《ねぐら》巣作れる禽《とり》、尻尾《しりを》なき猿、物言ふ蛇、露|誠実《まこと》なき狐の子、汚穢《けがれ》を知らざる豕《ゐのこ》の女《め》、彼等に長く侮られて遂に何時まで忍び得む、我等を長く侮らせて彼等を何時まで誇らすべき、忍ぶべきだけ忍びたり誇らすべきだけ誇らしたり、六十四年は既に過ぎたり、我等を縛せし機運の鉄鎖、我等を囚へし慈|忍《にん》の岩窟《いはや》は我が神力にて※[#「てへん+止」、第3水準1−84−71]断《ちぎ》り棄てたり崩潰《くづれ》さしたり、汝等暴れよ今こそ暴れよ、何十年の恨の毒気を彼等に返せ一時に返せ、彼等が驕慢《ほこり》の気《け》の臭さを鉄囲山外《てつゐさんげ》に攫《つか》んで捨てよ、彼等の頭を地につかしめよ、無慈悲の斧の刃味の好さを彼等が胸に試みよ、惨酷の矛、瞋恚《しんい》の剣の刃糞と彼等をなしくれよ、彼等が喉《のんど》に氷を与へて苦寒に怖れ顫《わなゝ》かしめよ、彼等が胆に針を与へて秘密の痛みに堪ざらしめよ、彼等が眼前《めさき》に彼等が生したる多数《おほく》の奢侈の子孫を殺して、玩物の念を嗟歎の灰の河に埋めよ、彼等は蚕児《かひこ》の家を奪ひぬ汝等彼等の家を奪へや、彼等は蚕児の智慧を笑ひぬ汝等彼等の智慧を讚せよ、すべて彼等の巧み
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング