まないと、自分の身体《みうち》の痛いのより後悔にぼろ/\涙を飜《こぼ》して居る愍然《ふびん》さは、何と可愛い奴では無い歟、喃お吉、源太は酷く清吉を叱つて叱つて十兵衞が所へ謝罪《あやまり》に行けとまで云ふか知らぬが、其は表向の義理なりや是非は無いが、此所は汝《おまへ》の儲け役、彼奴を何か、なあそれ、よしか、其所は源太を抱寝するほどのお吉様に了《わか》らぬことは無い寸法か、アハヽヽヽ、源太が居ないで話も要らぬ、どれ帰らうかい御馳走は預けて置かう、用があつたら何日でもお出、とぼつ/\語つて帰りし後、思へば済まぬことばかり。女の浅き心から分別も無く清吉に毒づきしが、逸りきつたる若き男の間違仕出して可憫《あはれ》や清吉は自己《おのれ》の世を狭め、わが身は大切《だいじ》の所天《をつと》をまで憎うてならぬのつそりに謝罪らするやうなり行きしは、時の拍子の出来事ながら畢竟《つまり》は我が口より出し過失《あやまち》、兎せん角せん何とすべきと、火鉢の縁に凭《もた》する肘のついがつくりと滑るまで、我を忘れて思案に思案凝らせしが、思ひ定めて、応左様ぢやと、立つて箪笥の大抽匣、明けて麝香《じやかう》の気《か》と共に投げ出し取り出すたしなみの、帯はそも/\此家《こゝ》へ来し嬉し恥かし恐ろしの其時締めし、ゑゝそれよ。懇話《ねだ》つて買つて貰ふたる博多に繻子に未練も無し、三枚重ねに忍ばるゝ往時《むかし》は罪の無い夢なり、今は苦労の山繭縞《やままゆじま》、ひらりと飛ばす飛八丈此頃好みし毛万筋《けまんすぢ》、千筋百筋気は乱るとも夫おもふは唯一筋、唯一筋の唐七糸帯《からしゆつちん》は、お屋敷奉公せし叔母が紀念《かたみ》と大切に秘蔵《ひめ》たれど何か厭はむ手放すを、と何やら彼やら有たけ出して婢《をんな》に包ませ、夫の帰らぬ其中と櫛|笄《かうがい》も手ばしこく小箱に纏めて、さて其品《それ》を無残や余所の蔵に籠らせ、幾干かの金懐中に浅黄の頭巾小提灯、闇夜も恐れず鋭次が家に。
其二十七
池の端の行き違ひより飜然《からり》と変りし源太が腹の底、初めは可愛う思ひしも今は小癪に障つてならぬ其十兵衞に、頭を下げ両手をついて謝罪らねばならぬ忌※[#二の字点、1−2−22]しさ。さりとて打捨置かば清吉の乱暴も我が命令けて為せし歟のやう疑がはれて、何も知らぬ身に心地快からぬ濡衣被せられむ事の口惜しく、唯さへおもしろからぬ此頃余計な魔がさして下らぬ心|労《づか》ひを、馬鹿※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]しき清吉めが挙動《ふるまひ》のために為ねばならぬ苦※[#二の字点、1−2−22]しさに益※[#二の字点、1−2−22]心|平穏《おだやか》ならねど、処弁《さば》く道の処弁かで済むべき訳も無ければ、是も皆自然に湧きし事、何とも是非なしと諦めて厭※[#二の字点、1−2−22]ながら十兵衞が家|音問《おとづ》れ、不慮の難をば訪ひ慰め、且は清吉を戒むること足らざりしを謝び、のつそり夫婦が様子を視るに十兵衞は例の無言三昧、お浪は女の物やさしく、幸ひ傷も肩のは浅く大した事ではござりませねば何卒《どうぞ》お案じ下されますな、態※[#二の字点、1−2−22]御見舞下されては実《まこと》に恐れ入りまする、と如才なく口はきけど言葉遣ひのあらたまりて、自然《おのづ》と何処かに稜角《かど》あるは問はずと知れし胸の中、若しや源太が清吉に内※[#二の字点、1−2−22]含めて為せし歟と疑ひ居るに極つたり。
ゑゝ業腹な、十兵衞も大方我を左様視て居るべし、疾《とく》時機《とき》の来よ此源太が返報《しかへし》仕様を見せて呉れむ、清吉ごとき卑劣《けち》な野郎の為た事に何似るべき歟、釿《てうな》で片耳殺ぎ取る如き下らぬ事を我が為うや、我が腹立は木片の火のぱつと燃え立ち直消ゆる、堪へも意地も無きやうなる事では済まさじ承知せじ、今日の変事は今日の変事、我が癇癪は我が癇癪、全で別なり関係《かゝりあひ》なし、源太が為やうは知るとき知れ悟らする時悟らせ呉れむと、裏《うち》にいよ/\不平は懐けど露塵ほども外には出さず、義理の挨拶見事に済まして直其足を感応寺に向け、上人の御目通り願ひ、一応自己が隷属《みうち》の者の不埓を御謝罪《おわび》し、我家に帰りて、卒《いざ》これよりは鋭次に会ひ、其時清を押へ呉たる礼をも演べつ其時の景状《やうす》をも聞きつ、又一ツには散※[#二の字点、1−2−22]清を罵り叱つて以後《こののち》我家に出入り無用と云ひつけ呉れむと立出掛け、お吉の居ぬを不審して何所へと問へば、何方へか一寸《ちよと》行て来るとてお出になりました、と何食はぬ顔で婢《をんな》の答へ、口禁《くちどめ》されてなりとは知らねば、応左様歟、よし/\、我は火の玉の兄《あにき》がところへ遊びに行たとお吉帰らば云ふて置け、と草履つつかけ出合ひがしら、胡麻竹の杖とぼ/\と焼痕《やけこげ》のある提灯片手、老の歩みの見る目笑止にへの字なりして此方へ来る婆。おゝ清の母親《おふくろ》ではないか。あ、親方様でしたか、
其二十八
あゝ好いところで御眼にかゝりましたが何所《どちら》へか御出掛けでござりまするか、と忙し気に老婆《ばゞ》が問ふに源太軽く会釈して、まあ能いは、遠慮せずと此方へ這入りやれ、態※[#二の字点、1−2−22]夜道を拾ふて来たは何ぞ急の用か、聴いてあげやう、と立戻れば、ハイ/\、有り難うござります、御出掛のところを済みません、御免下さいまし、ハイ/\、と云ひながら後に随いて格子戸くゞり、寒かつたらうに能う出て来たの、生憎お吉も居ないで関ふことも出来ぬが、縮《ちゞこ》まつて居ずとずつと前へ進《で》て火にでもあたるがよい、と親切に云ふてくるゝ源太が言葉に愈※[#二の字点、1−2−22]身を堅くして縮まり、お構ひ下さいましては恐れ入りまする、ハイ/\、懐炉を入れて居りますれば是で恰好でござりまする、と意久地なく落かゝる水涕を洲の立つた半天の袖で拭きながら遥《はるか》下《さが》つて入口近きところに蹲まり、何やら云ひ出したさうな素振り、源太早くも大方察して老婆《としより》の心の中嘸かしと気の毒さ堪らず、余計な事仕出して我に肝煎らせし清吉のお先走りを罵り懲らして、当分出入ならぬ由云ひに鋭次がところへ行かんとせし矢先であれど、視れば我が子を除いては阿彌陀様より他に親しい者も無かるべき孱弱《かよわ》き婆のあはれにて、我清吉を突き放さば身は腰弱弓の弦《つる》に断れられし心地して、在るに甲斐なき生命ながらへむに張りも無く的も無くなり、何程か悲み歎いて多くもあらぬ余生を愚痴の涙の時雨に暮らし、晴※[#二の字点、1−2−22]とした気持のする日も無くて終ることならむと、思ひ遣れば思ひ遣るだけ憫然《ふびん》さの増し、煙草捻つてつい居るに、婆は少しくにぢり出で、夜分まゐりまして実に済みませんが、あの少しお願ひ申したい訳のござりまして、ハイ/\、既御存知でもござりませうが彼清吉めが飛んだ事をいたしましたさうで、ハイ/\、鐵五郎様から大概は聞きましたが、平常からして気の逸い奴で、直に打つの斫《き》るのと騒ぎまして其度にひや/\させまする、お蔭さまで一人前にはなつて居りましても未だ児童《がき》のやうな真一酷《まいつこく》、悪いことや曲つたことは決して仕ませぬが取り上せては分別の無くなる困つた奴《やつこ》で、ハイ/\、悪気は夢さら無い奴でござります、ハイ/\其は御存知で、ハイ有り難うござります、何様いふ筋で喧嘩をいたしましたか知りませぬが大それた手斧《てうな》なんぞを振り舞はしましたそうで、左様きゝました時は私が手斧で斫られたやうな心持がいたしました、め組の親分とやらが幸ひ抱き留めて下されましたとか、まあ責めてもでござります、相手が死にでもしましたら彼奴《あれめ》は下手人、わたくしは彼を亡くして生きて居る瀬はござりませぬ、ハイ有り難うござります、彼めが幼少《ちひさい》ときは烈《ひど》い虫持《むしもち》で苦労をさせられましたも大抵ではござりませぬ、漸く中山の鬼子母神様の御利益で満足には育ちましたが、癒りましたら七歳《なゝつ》までに御庭の土を踏ませませうと申して置きながら、遂何彼にかまけて御礼参りもいたさせなかつた其御罰か、丈夫にはなりましたが彼通の無鉄砲、毎※[#二の字点、1−2−22]お世話をかけまする、今日も今日とて鐵五郎様がこれ/\と掻摘んで話されました時の私の吃驚、刃物を準備《ようい》までしてと聞いた時には、ゑゝ又かと思はずどつきり胸も裂けさうになりました、め組の親分様とかが預かつて下されたとあれば安心のやうなものゝ、清めは怪我はいたしませぬかと聞けば鐵様の曖昧な返辞、別条はない案じるなと云はるゝだけに猶案ぜられ、其親分の家を尋ぬれば、其処へ汝《おまへ》が行つたが好いか行かぬが可いか我には分らぬ、兎も角も親方様のところへ伺つて見ろと云ひつ放しで帰つて仕舞はれ、猶※[#二の字点、1−2−22]胸がしく/\痛んで居ても起ても居られませねば、留守を隣家《となり》の傘張りに頼むでやうやく参りました、何うかめ組の親分とやらの家を教へて下さいまし、ハイ/\直にまゐりまするつもりで、何んな態して居りまするか、若しや却つて大怪我など為て居るのではござりますまいか、よいものならば早う逢て安堵したうござりまするし喧嘩の模様も聞きたうござりまする、大丈夫曲つた事はよもやいたすまいと思ふて居りまするが若い者の事、ひよつと筋の違つた意趣でゞも為た訳なら、相手の十兵衞様に先此婆が一生懸命で謝罪り、婆は仮令如何されても惜くない老耄《おいぼれ》、生先の長い彼奴《あれめ》が人様に恨まれるやうなことの無いやうに為ねばなりませぬ、とおろ/\涙になつての話し。始終を知らで一[#(ト)]筋に我子をおもふ老の繰言、此返答には源太こまりぬ。
其二十九
八五郎其所に居るか、誰か来たやうだ明けてやれ、と云はれて、なんだ不思議な、女らしいぞと口の中で独語《つぶやき》ながら、誰だ女嫌ひの親分の所へ今頃来るのは、さあ這入りな、とがらりと戸を引き退くれば、八《は》ッ様《さん》お世話、と軽い挨拶、提灯吹き滅《け》して頭巾を脱ぎにかゝるは、此盆にも此の正月にも心付して呉れたお吉と気がついて八五郎めんくらひ、素肌に一枚どてらの袵《まへ》広がつて鼠色《ねずみ》になりし犢鼻褌《ふんどし》の見ゆるを急に押し隠しなどしつ、親分、なんの、あの、なんの姉御だ、と忙しく奥へ声をかくるに、なんの尽しで分る江戸ッ児。応左様か、お吉来たの、能く来た、まあ其辺《そこら》の塵埃《ごみ》の無さゝうなところへ坐つて呉れ、油虫が這つて行くから用心しな、野郎ばかりの家は不潔《きたない》のが粧飾《みえ》だから仕方が無い、我《おれ》も汝《おまへ》のやうな好い嚊でも持つたら清潔《きれい》に為やうよ、アハヽヽと笑へばお吉も笑ひながら、左様したらまた不潔※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]と厳敷《きびしく》御叱《おいぢ》めなさるか知れぬ、と互ひに二ツ三ツ冗話《むだばな》し仕て後、お吉少しく改まり、清吉は眠《ね》て居りまするか、何様いふ様子か見ても遣りたし、心にかゝれば参りました、と云へば鋭次も打頷き、清は今がたすや/\睡着《ねつ》いて起きさうにも無い容態ぢやが、疵といふて別にあるでもなし頭の顱骨《さら》を打破つた訳でもなければ、整骨医師《ほねつぎいしや》の先刻云ふには、烈《ひど》く逆上したところを滅茶※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]に撲たれたため一時は気絶までも為たれ、保証《うけあひ》大したことは無い由、見たくば一寸覗いて見よ、と先に立つて導く後につき行くお吉、三畳ばかりの部屋の中に一切夢で眠り居る清吉を見るに、顔も頭も膨れ上りて、此様に撲つてなしたる鋭次の酷《むご》さが恨めしきまで可憫《あはれ》なる態《さま》なれど、済んだ事の是非も無く、座に戻つて鋭次に対ひ、我夫《うち》では必ず清吉が余計な手出しに腹を立ち、御上人様やら十兵衞への義
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