悲の浸み透れば感涙とゞめあへぬ十兵衞、段※[#二の字点、1−2−22]と赤土のしつとりとしたるところ、飛石の画趣《ゑごゝろ》に布《しか》れあるところ、梧桐の影深く四方竹の色ゆかしく茂れるところなど※[#「螢」の「虫」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]《めぐ》り繞《めぐ》り過ぎて、小《さゝ》やかなる折戸を入れば、花も此といふはなき小庭の唯ものさびて、有楽形《うらくがた》の燈籠に松の落葉の散りかゝり、方星宿《はうせいしゆく》の手水鉢に苔の蒸せるが見る眼の塵をも洗ふばかりなり。
 上人庭下駄脱ぎすてゝ上にあがり、さあ汝《そなた》も此方へ、と云ひさして掌に持たれし花を早速《さそく》に釣花活に投げこまるゝにぞ、十兵衞なか/\怯《おめ》ず臆せず、手拭で足はたくほどの事も気のつかぬ男とて為すことなく、草履脱いでのつそりと三畳台目の茶室に入りこみ、鼻突合はすまで上人に近づき坐りて黙※[#二の字点、1−2−22]と一礼する態は、礼儀に嫻《なら》はねど充分に偽飾《いつはり》なき情《こゝろ》の真実《まこと》をあらはし、幾度か直にも云ひ出んとして尚開きかぬる口を漸くに開きて、舌の動きもたど/\しく、五重の塔の、御願に出ましたは五重の塔のためでござります、と藪から棒を突き出したやうに尻もつたてゝ声の調子も不揃に、辛くも胸にあることを額やら腋の下の汗と共に絞り出せば、上人おもはず笑を催され、何か知らねど老衲《わし》をば怖いものなぞと思はず、遠慮を忘れて緩《ゆる》りと話をするがよい、庫裡の土間に坐り込うで動かずに居た様子では、何か深う思ひ詰めて来たことであらう、さあ遠慮を捨てゝ急かずに、老衲をば朋友《ともだち》同様におもふて話すがよい、と飽くまで慈《やさ》しき注意《こゝろぞへ》。十兵衞脆くも梟と常※[#二の字点、1−2−22]悪口受くる銅鈴眼《すゞまなこ》に既《はや》涙を浮めて、唯《はい》、唯、唯ありがたうござりまする、思ひ詰めて参上《まゐ》りました、その五重の塔を、斯様いふ野郎でござります、御覧の通り、のつそり十兵衞と口惜い諢名《あだな》をつけられて居る奴《やつこ》でござりまする、然し御上人様、真実《ほんと》でござりまする、工事《しごと》は下手ではござりませぬ、知つて居ります私しは馬鹿でござります、馬鹿にされて居ります、意気地の無い奴でござります、虚誕《うそ》はなか/\申しませぬ、御上人様、大工は出来ます、大隅流《おほすみりう》は童児《こども》の時から、後藤立川二ツの流義も合点致して居りまする、為《さ》せて、五重塔の仕事を私に為せていたゞきたい、それで参上《まゐり》ました、川越の源太様が積りをしたとは五六日前聞きました、それから私は寐ませぬは、御上人様、五重塔は百年に一度一生に一度建つものではござりませぬ、恩を受けて居ります源太様の仕事を奪《と》りたくはおもひませぬが、あゝ賢い人は羨ましい、一生一度百年一度の好い仕事を源太様は為るゝ、死んでも立派に名を残さるゝ、あゝ羨ましい羨ましい、大工となつて生てゐる生甲斐もあらるゝといふもの、それに引代へ此十兵衞は、鑿《のみ》手斧《てうな》もつては源太様にだとて誰にだとて、打つ墨縄の曲ることはあれ万が一にも後れを取るやうな事は必ず/\無いと思へど、年が年中長屋の羽目板《はめ》の繕ひやら馬小屋箱溝の数仕事、天道様が智慧といふものを我《おれ》には賜《くだ》さらない故仕方が無いと諦めて諦めても、拙《まづ》い奴等が宮を作り堂を受負ひ、見るものの眼から見れば建てさせた人が気の毒なほどのものを築造《こしら》へたを見るたびごとに、内※[#二の字点、1−2−22]自分の不運を泣きますは、御上人様、時※[#二の字点、1−2−22]は口惜くて技倆《うで》もない癖に智慧ばかり達者な奴が憎くもなりまするは、御上人様、源太様は羨ましい、智慧も達者なれば手腕《うで》も達者、あゝ羨ましい仕事をなさるか、我《おれ》はよ、源太様はよ、情無い此我はよと、羨ましいがつひ高《かう》じて女房《かゝ》にも口きかず泣きながら寐ました其夜の事、五重塔を汝《きさま》作れ今直つくれと怖しい人に吩咐《いひつ》けられ、狼狽《うろたへ》て飛び起きさまに道具箱へ手を突込んだは半分夢で半分|現《うつゝ》、眼が全く覚めて見ますれば指の先を鐔鑿《つばのみ》につつかけて怪我をしながら道具箱につかまつて、何時の間にか夜具の中から出て居た詰らなさ、行燈《あんどん》の前につくねんと坐つて嗚呼情無い、詰らないと思ひました時の其心持、御上人様、解りまするか、ゑゝ、解りまするか、これだけが誰にでも分つて呉れゝば塔も建てなくてもよいのです、どうせ馬鹿なのつそり[#「のつそり」に傍点]十兵衞は死んでもよいのでござりまする、腰抜|鋸《のこ》のやうに生て居たくもないのですは、其夜《それ》からといふ
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