たくさん》ありましたろうに、当時|持囃《もてはや》された詩人の身で、自分で藪くぐりなんぞをしてまでも気に入った竿を得たがったのも、好《すき》の道なら身をやつす道理でございます。半井《なからい》卜養《ぼくよう》という狂歌師の狂歌に、浦島《うらしま》が釣の竿とて呉竹《くれたけ》の節はろくろく伸びず縮まず、というのがありまするが、呉竹の竿など余り感心出来ぬものですが、三十六節あったとかで大《おおい》に節のことを褒《ほ》めていまする、そんなようなものです。それで趣味が高じて来るというと、良いのを探すのに浮身《うきみ》をやつすのも自然の勢《いきおい》です。
 二人はだんだんと竿に見入っている中《うち》に、あの老人が死んでも放さずにいた心持が次第に分って来ました。
 「どうもこんな竹は此処《ここい》らに見かけねえですから、よその国の物か知れませんネ。それにしろ二|間《けん》の余《よ》もあるものを持って来るのも大変な話だし。浪人の楽《らく》な人だか何だか知らないけれども、勝手なことをやって遊んでいる中《うち》に中気が起ったのでしょうが、何にしろ良《い》い竿だ」と吉はいいました。
 「時にお前、蛇口を
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