うまく食わなかったりなんかした時に、魚というものは必ず何かの蔭にいるものですから、それを釣るのです。鳥は木により、さかなはかかり、人は情《なさけ》の蔭による、なんぞという「よしこの」がありますが、かかりというのは水の中にもさもさしたものがあって、其処《そこ》に網を打つことも困難であり、釣鉤《つりばり》を入れることも困難なようなひっかかりがあるから、かかりと申します。そのかかりにはとかくに魚が寄るものであります。そのかかりの前へ出掛けて行って、そうしてかかりと擦《す》れ擦れに鉤《はり》を打込む、それがかかり前の釣といいます。澪だの平場《ひらば》だので釣れない時にかかり前に行くということは誰もすること。またわざわざかかりへ行きたがる人もある位。古い澪杙《みよぐい》、ボッカ、われ舟、ヒビがらみ、シカケを失うのを覚悟の前にして、大様《おおよう》にそれぞれの趣向で遊びます。いずれにしても大名釣《だいみょうづり》といわれるだけに、ケイズ釣は如何にも贅沢に行われたものです。
 ところで釣の味はそれでいいのですが、やはり釣は根《ね》が魚を獲《と》るということにあるものですから、余り釣れないと遊びの世界
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