と、私が江戸|訛《なま》りを言うものとお思いになる方もありましょうが、今は皆様カイズカイズとおっしゃいますが、カイズは訛りで、ケイズが本当です。系図を言えば鯛《たい》の中《うち》、というので、系図鯛《けいずだい》を略してケイズという黒い鯛で、あの恵比寿《えびす》様が抱いていらっしゃるものです。イヤ、斯様《かよう》に申しますと、えびす様の抱いていらっしゃるのは赤い鯛ではないか、変なことばかり言う人だと、また叱られますか知れませんが、これは野必大《やひつだい》と申す博物の先生が申されたことです。第一えびす様が持っていられるようなああいう竿《さお》では赤い鯛は釣りませぬものです。黒鯛《くろだい》ならああいう竿で丁度釣れますのです。釣竿の談《だん》になりますので、よけいなことですがちょっと申し添えます。
或《ある》日のこと、この人が例の如く舟に乗って出ました。船頭の吉《きち》というのはもう五十過ぎて、船頭の年寄なぞというものは客が喜ばないもんでありますが、この人は何もそう焦《あせ》って魚をむやみに獲《と》ろうというのではなし、吉というのは年は取っているけれども、まだそれでもそんなにぼけているほど年を取っているのじゃなし、ものはいろいろよく知っているし、この人は吉を好い船頭として始終使っていたのです。釣船頭というものは魚釣の指南番《しなんばん》か案内人のように思う方もあるかも知れませぬけれども、元来そういうものじゃないので、ただ魚釣をして遊ぶ人の相手になるまでで、つまり客を扱うものなんですから、長く船頭をしていた者なんぞというものはよく人を呑込《のみこ》み、そうして人が愉快と思うこと、不愉快と思うことを呑込んで、愉快と思うように時間を送らせることが出来れば、それが好い船頭です。網船頭《あみせんどう》なぞというものはなおのことそうです。網は御客自身打つ人もあるけれども先ずは網打《あみうち》が打って魚を獲るのです。といって魚を獲って活計《くらし》を立てる漁師とは異《ちが》う。客に魚を与えることを多くするより、客に網漁《あみりょう》に出たという興味を与えるのが主《しゅ》です。ですから網打だの釣船頭だのというものは、洒落《しゃれ》が分らないような者じゃそれになっていない。遊客も芸者の顔を見れば三弦《しゃみ》を弾《ひ》き歌を唄わせ、お酌《しゃく》には扇子《せんす》を取って立って舞わせる、むやみに多く歌舞《かぶ》を提供させるのが好いと思っているような人は、まだまるで遊びを知らないのと同じく、魚にばかりこだわっているのは、いわゆる二才客《にさいきゃく》です。といって釣に出て釣らなくても可《よ》いという理屈はありませんが、アコギに船頭を使って無理にでも魚を獲ろうというようなところは通り越している人ですから、老船頭の吉でも、かえってそれを好いとしているのでした。
ケイズ釣というのは釣の中でもまた他の釣と様子が違う。なぜかと言いますと、他の、例えばキス釣なんぞというのは立込《たちこ》みといって水の中へ入っていたり、あるいは脚榻釣《きゃたつつり》といって高い脚榻を海の中へ立て、その上に上《あが》って釣るので、魚のお通りを待っているのですから、これを悪く言う者は乞食釣《こじきづり》なんぞと言う位で、魚が通ってくれなければ仕様がない、みじめな態《ざま》だからです。それからまたボラ釣なんぞというものは、ボラという魚が余り上等の魚でない、群れ魚ですから獲れる時は重たくて仕方がない、担《にな》わなくては持てないほど獲れたりなんぞする上に、これを釣る時には舟の艫《とも》の方へ出まして、そうして大きな長い板子《いたご》や楫《かじ》なんぞを舟の小縁《こべり》から小縁へ渡して、それに腰を掛けて、風の吹きさらしにヤタ一《いち》の客よりわるいかっこうをして釣るのでありまするから、もう遊びではありません。本職の漁師みたいな姿になってしまって、まことに哀《あわ》れなものであります。が、それはまたそれで丁度そういう調子合《ちょうしあい》のことの好きな磊落《らいらく》な人が、ボラ釣は豪爽《ごうそう》で好いなどと賞美する釣であります。が、話中の人はそんな釣はしませぬ。ケイズ釣りというのはそういうのと違いまして、その時分、江戸の前の魚はずっと大川《おおかわ》へ奥深く入りましたものでありまして、永代橋《えいたいばし》新大橋《しんおおはし》より上流《かみ》の方でも釣ったものです。それですから善女《ぜんにょ》が功徳《くどく》のために地蔵尊《じぞうそん》の御影《ごえい》を刷った小紙片《しょうしへん》を両国橋《りょうごくばし》の上からハラハラと流す、それがケイズの眼球《めだま》へかぶさるなどという今からは想像も出来ないような穿《うが》ちさえありました位です。
で、川のケイズ釣は川の深い処で釣る場
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