半分は逆落しになって深い深い谷底へ落ちて行くのを目にしたその心持はどんなでしたろう。それで上に残った者は狂人の如く興奮し、死人の如く絶望し、手足も動かせぬようになったけれども、さてあるべきではありませぬから、自分たちも今度は滑って死ぬばかりか、不測の運命に臨んでいる身と思いながら段々|下《お》りてまいりまして、そうして漸《ようや》く午後の六時頃に幾何《いくら》か危険の少いところまで下りて来ました。
下りては来ましたが、つい先刻《さっき》まで一緒にいた人々がもう訳も分らぬ山の魔の手にさらわれて終《しま》ったと思うと、不思議な心理状態になっていたに相違ありません。で、我々はそういう場合へ行ったことがなくて、ただ話のみを聞いただけでは、それらの人の心の中《うち》がどんなものであったろうかということは、先ず殆《ほとん》ど想像出来ぬのでありまするが、そのウィンパーの記したものによりますると、その時夕方六時頃です、ペーテル一族の者は山登りに馴れている人ですが、その一人がふと見るというと、リスカンという方に、ぼうっとしたアーチのようなものが見えましたので、はてナと目を留《と》めておりますると、外《ほか》の者もその見ている方を見ました。するとやがてそのアーチの処へ西洋諸国の人にとっては東洋の我々が思うのとは違った感情を持つところの十字架の形が、それも小さいのではない、大きな十字架の形が二つ、ありあり空中に見えました。それで皆もなにかこの世の感じでない感じを以《もっ》てそれを見ました、と記してありまする。それが一人見たのではありませぬ、残っていた人にみな見えたと申すのです。十字架は我々の五輪《ごりん》の塔《とう》同様なものです。それは時に山の気象で以《もっ》て何かの形が見えることもあるものでありますが、とにかく今のさきまで生きておった一行の者が亡くなって、そうしてその後《あと》へ持って来て四人が皆そういう十字架を見た、それも一人《ひとり》二人《ふたり》に見えたのでなく、四人に見えたのでした。山にはよく自分の身体《からだ》の影が光線の投げられる状態によって、向う側へ現われることがありまする。四人の中《うち》にはそういう幻影かと思った者もあったでしょう、そこで自分たちが手を動かしたり身体《からだ》を動かして見たところが、それには何らの関係がなかったと申します。
これでこの話はお終《しま》いに致します。古い経文《きょうもん》の言葉に、心は巧《たく》みなる画師《えし》の如し、とございます。何となく思浮《おもいうか》めらるる言葉ではござりませぬか。
さてお話し致しますのは、自分が魚釣《うおつり》を楽《たのし》んでおりました頃、或《ある》先輩から承《うけたまわ》りました御話《おはなし》です。徳川期もまだひどく末にならない時分の事でございます。江戸は本所《ほんじょ》の方に住んでおられました人で――本所という処は余り位置の高くない武士どもが多くいた処で、よく本所の小《こ》ッ旗本《ぱたもと》などと江戸の諺《ことわざ》で申した位で、千|石《ごく》とまではならないような何百石というような小さな身分の人たちが住んでおりました。これもやはりそういう身分の人で、物事がよく出来るので以《もっ》て、一時は役《やく》づいておりました。役づいておりますれば、つまり出世の道も開けて、宜《よろ》しい訳でしたが、どうも世の中というものはむずかしいもので、その人が良いから出世するという風には決《きま》っていないもので、かえって外《ほか》の者の嫉《そね》みや憎みをも受けまして、そうして役を取上げられまする、そうすると大概|小普請《こぶしん》というのに入る。出る杙《くい》が打たれて済んで御《お》小普請、などと申しまして、小普請入りというのは、つまり非役《ひやく》になったというほどの意味になります。この人も良い人であったけれども小普請|入《いり》になって、小普請になってみれば閑《ひま》なものですから、御用は殆どないので、釣《つり》を楽みにしておりました。別に活計《くらし》に困る訳じゃなし、奢《おご》りも致さず、偏屈でもなく、ものはよく分る、男も好《よ》し、誰が目にも良い人。そういう人でしたから、他の人に面倒な関係なんかを及ぼさない釣を楽んでいたのは極く結構な御話でした。
そこでこの人、暇具合《ひまぐあい》さえ良ければ釣に出ておりました。神田川《かんだがわ》の方に船宿《ふなやど》があって、日取《ひど》り即ち約束の日には船頭が本所側の方に舟を持って来ているから、其処《そこ》からその舟に乗って、そうして釣に出て行く。帰る時も舟から直《じき》に本所側に上《あが》って、自分の屋敷へ行く、まことに都合好くなっておりました。そして潮の好い時には毎日のようにケイズを釣っておりました。ケイズと申します
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