幻談
幸田露伴
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)皆さん方《がた》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一行|即《すなわ》ち
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)[#「※」は「たけかんむり+隻」、17−8]
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こう暑くなっては皆さん方《がた》があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼《すず》しい海辺《うみべ》に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤《ごもっと》もです。が、もう老い朽《く》ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代り小庭《こにわ》の朝露《あさつゆ》、縁側《えんがわ》の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過して行けるというもので、まあ年寄《としより》はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。山へ登るのも極《ご》くいいことであります。深山《しんざん》に入り、高山、嶮山《けんざん》なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代りまた危険も生じます訳《わけ》で、怖《おそろ》しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申して置きます。
それは西暦千八百六十五年の七月の十三日の午前五時半にツェルマットという処《ところ》から出発して、名高いアルプスのマッターホルンを世界始まって以来最初に征服致しましょうと心ざし、その翌十四日の夜明前《よあけまえ》から骨を折って、そうして午後一時四十分に頂上へ着きましたのが、あの名高いアルプス登攀記《とうはんき》の著者のウィンパー一行でありました。その一行八人がアルプスのマッターホルンを初めて征服したので、それから段々とアルプスも開《ひら》けたような訳です。
それは皆様がマッターホルンの征服の紀行によって御承知の通りでありますから、今|私《わたくし》が申さなくても夙《つと》に御合点《ごがてん》のことですが、さてその時に、その前から他の一行|即《すなわ》ち伊太利《イタリー》のカレルという人の一群がやはりそこを征服しようとして、両者は自然と競争の形になっていたのであります。しかしカレルの方は不幸にして道の取り方が違っていたために、ウィンパーの一行には負けてしまったのであります。ウィンパーの一行は登る時には、クロス、それから次に年を取った方のペーテル、それからその悴《せがれ》が二人、それからフランシス・ダグラス卿《きょう》というこれは身分のある人です。それからハドウ、それからハドス、それからウィンパーというのが一番|終《しま》いで、つまり八人がその順序で登りました。
十四日の一時四十分にとうとうさしもの恐《おそろ》しいマッターホルンの頂上、天にもとどくような頂上へ登り得て大《おおい》に喜んで、それから下山にかかりました。下山にかかる時には、一番先へクロス、その次がハドウ、その次がハドス、それからフランシス・ダグラス卿、それから年を取ったところのペーテル、一番終いがウィンパー、それで段々降りて来たのでありますが、それだけの前古《ぜんこ》未曾有《みぞう》の大成功を収め得た八人は、上《のぼ》りにくらべてはなお一倍おそろしい氷雪の危険の路を用心深く辿《たど》りましたのです。ところが、第二番目のハドウ、それは少し山の経験が足りなかったせいもありましょうし、また疲労したせいもありましたろうし、イヤ、むしろ運命のせいと申したいことで、誤って滑って、一番先にいたクロスへぶつかりました。そうすると、雪や氷の蔽《おお》っている足がかりもないような険峻《けんしゅん》の処で、そういうことが起ったので、忽《たちま》ちクロスは身をさらわれ、二人は一つになって落ちて行きました訳《わけ》。あらかじめロープをもって銘々《めいめい》の身をつないで、一人が落ちても他が踏《ふみ》止《とど》まり、そして個々の危険を救うようにしてあったのでありますけれども、何せ絶壁の処で落ちかかったのですから堪《たま》りません、二人に負けて第三番目も落ちて行く。それからフランシス・ダグラス卿は四番目にいたのですが、三人の下へ落ちて行く勢《いきおい》で、この人も下へ連れて行かれました。ダグラス卿とあとの四人との間でロープはピンと張られました。四人はウンと踏《ふみ》堪《こら》えました。落ちる四人と堪《こら》える四人との間で、ロープは力足らずしてプツリと切れて終《しま》いました。丁度《ちょうど》午後三時のことでありましたが、前の四人は四千尺ばかりの氷雪の処を逆《さか》おとしに落下したのです。後《あと》の人は其処《そこ》へ残ったけれども、見る見る自分たちの一行の
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