を持たせて帰そうと思うものですから、さあいろいろな潮行《しおゆ》きと場処《ばしょ》とを考えて、あれもやり、これもやったけれども、どうしても釣れない。それがまた釣れるべきはずの、月のない大潮《おおしお》の日。どうしても釣れないから、吉もとうとうへたばって終《しま》って、
 「やあ旦那、どうも二日とも投げられちゃって申訳《もうしわけ》がございませんなア」と言う。客は笑って、
 「なアにお前、申訳がございませんなんて、そんな野暮《やぼ》かたぎのことを言うはずの商売じゃねえじゃねえか。ハハハ。いいやな。もう帰るより仕方がねえ、そろそろ行こうじゃないか。」
 「ヘイ、もう一《いっ》ヶ処《しょ》やって見て、そうして帰りましょう。」
 「もう一ヶ処たって、もうそろそろ真《ま》づみになって来るじゃねえか。」
 真づみというのは、朝のを朝《あさ》まづみ、晩のを夕《ゆう》まづみと申します。段々と昼になったり夜になったりする迫《せ》りつめた時をいうのであって、とかくに魚は今までちっとも出て来なかったのが、まづみになって急に出て来たりなんかするものです。吉の腹の中では、まづみに中《あ》てたいのですが、客はわざとその反対をいったのでした。
 「ケイズ釣に来て、こんなに晩《おそ》くなって、お前、もう一ヶ処なんて、そんなぶいきなことを言い出して。もうよそうよ。」
 「済みませんが旦那、もう一ヶ処ちょいと当てて。」
と、客と船頭が言うことがあべこべになりまして、吉は自分の思う方へ船をやりました。
 吉は全敗《ぜんぱい》に終らせたくない意地から、舟を今日までかかったことのない場処へ持って行って、「かし」を決めるのに慎重な態度を取りながら、やがて、
 「旦那、竿は一本にして、みよしの真正面へ巧《うま》く振込んで下さい」と申しました。これはその壺《つぼ》以外は、左右も前面も、恐ろしいカカリであることを語っているのです。客は合点して、「あいよ」とその言葉通りに実に巧く振込みましたが、心中では気乗薄《きのりうす》であったことも争えませんでした。すると今手にしていた竿を置くか置かぬかに、魚の中《あた》りか芥《ごみ》の中りかわからぬ中り、――大魚《たいぎょ》に大《おお》ゴミのような中りがあり、大ゴミに大魚のような中りがあるもので、そういう中りが見えますと同時に、二段引どころではない、糸はピンと張り、竿はズイと引かれて行きそうになりましたから、客は竿尻を取ってちょいと当てて、直《すぐ》に竿を立てにかかりました。が、こっちの働きは少しも向うへは通じませんで、向うの力ばかりが没義道《もぎどう》に強うございました。竿は二本継《にほんつぎ》の、普通の上物《じょうもの》でしたが、継手《つぎて》の元際《もとぎわ》がミチリと小さな音がして、そして糸は敢《あ》えなく断《き》れてしまいました。魚が来てカカリへ啣《くわ》え込んだのか、大芥《おおごみ》が持って行ったのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉はまた一つ此処《ここ》で黒星がついて、しかも竿が駄目になったのを見逃しはしませんで、一層心中は暗くなりました。こういうこともない例ではありませんが、飽《あく》までも練れた客で、「後追《あとお》い小言《こごと》」などは何も言わずに吉の方を向いて、
 「帰れっていうことだよ」と笑いましたのは、一切の事を「もう帰れ」という自然の命令の意味合《いみあい》だと軽く流して終《しま》ったのです。「ヘイ」というよりほかはない、吉は素直にカシを抜いて、漕《こ》ぎ出しながら、
 「あっしの樗蒲《ちょぼ》一《いち》がコケだったんです」と自語《しご》的《てき》に言って、チョイと片手で自分の頭《かしら》を打つ真似《まね》をして笑った。「ハハハ」「ハハハ」と軽い笑《わらい》で、双方とも役者が悪くないから味な幕切《まくぎれ》を見せたのでした。
 海には遊船《ゆうせん》はもとより、何の舟も見渡す限り見えないようになっていました。吉はぐいぐいと漕いで行く。余り晩《おそ》くまでやっていたから、まずい潮《しお》になって来た。それを江戸の方に向って漕いで行く。そうして段々やって来ると、陸はもう暗くなって江戸の方|遥《はるか》にチラチラと燈《ひ》が見えるようになりました。吉は老いても巧いもんで、頻《しき》りと身体《からだ》に調子をのせて漕ぎます。苫《とま》は既に取除《とりの》けてあるし、舟はずんずんと出る。客はすることもないから、しゃんとして、ただぽかんと海面《うみづら》を見ていると、もう海の小波《さざなみ》のちらつきも段々と見えなくなって、雨《あま》ずった空が初《はじめ》は少し赤味があったが、ぼうっと薄墨《うすずみ》になってまいりました。そういう時は空と水が一緒にはならないけれども、空の明るさが海へ溶込《とけこ》むようになって、反
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