射する気味が一つもないようになって来るから、水際《みずぎわ》が蒼茫《そうぼう》と薄暗くて、ただ水際だということが分る位の話、それでも水の上は明るいものです。客はなんにも所在がないから江戸のあの燈《ひ》は何処《どこ》の燈だろうなどと、江戸が近くなるにつけて江戸の方を見、それからずいと東の方を見ますと、――今漕いでいるのは少しでも潮が上《かみ》から押すのですから、澪《みよ》を外れた、つまり水の抵抗の少い処を漕いでいるのでしたが、澪の方をヒョイッと見るというと、暗いというほどじゃないが、よほど濃い鼠色《ねずみ》に暮れて来た、その水の中からふっと何か出ました。はてナと思って、そのまま見ているとまた何かがヒョイッと出て、今度は少し時間があってまた引込《ひっこ》んでしまいました。葭《よし》か蘆《あし》のような類《たぐい》のものに見えたが、そんなものなら平らに水を浮いて流れるはずだし、どうしても細い棒のようなものが、妙な調子でもって、ツイと出てはまた引込みます。何の必要があるではないが、合点が行きませぬから、
「吉や、どうもあすこの処に変なものが見えるな」とちょっと声をかけました。客がジッと見ているその眼の行方《ゆくえ》を見ますと、丁度その時またヒョイッと細いものが出ました。そしてまた引込みました。客はもう幾度も見ましたので、
「どうも釣竿が海の中から出たように思えるが、何だろう。」
「そうでござんすね、どうも釣竿のように見えましたね。」
「しかし釣竿が海の中から出る訳はねえじゃねえか。」
「だが旦那、ただの竹竿《たけざお》が潮の中をころがって行くのとは違った調子があるので、釣竿のように思えるのですネ。」
吉は客の心に幾らでも何かの興味を与えたいと思っていた時ですから、舟を動かしてその変なものが出た方に向ける。
「ナニ、そんなものを、お前、見たからって仕様がねえじゃねえか。」
「だって、あっしにも分らねえおかしなもんだからちょっと後学《こうがく》のために。」
「ハハハ、後学のためには宜《よ》かったナ、ハハハ。」
吉は客にかまわず、舟をそっちへ持って行くと、丁度|途端《とたん》にその細長いものが勢《いきおい》よく大きく出て、吉の真向《まっこう》を打たんばかりに現われた。吉はチャッと片手に受留《うけと》めたが、シブキがサッと顔へかかった。見るとたしかにそれは釣竿で、下に何かいてグイと持って行こうとするようなので、なやすようにして手をはなさずに、それをすかして見ながら、
「旦那これは釣竿です、野布袋《のぼてい》です、良《い》いもんのようです。」
「フム、そうかい」といいながら、その竿の根の方を見て、
「ヤ、お客さんじゃねえか。」
お客さんというのは溺死者《できししゃ》のことを申しますので、それは漁やなんかに出る者は時々はそういう訪問者に出会いますから申出《もうしだ》した言葉です。今の場合、それと見定めましたから、何も嬉《うれ》しくもないことゆえ、「お客さんじゃねえか」と、「放してしまえ」と言わぬばかりに申しましたのです。ところが吉は、
「エエ、ですが、良《い》い竿ですぜ」と、足らぬ明るさの中でためつすかしつ見ていて、
「野布袋の丸《まる》でさア」と付足《つけた》した。丸というのはつなぎ竿になっていない物のこと。野布袋竹《のぼていだけ》というのは申すまでもなく釣竿用の良いもので、大概の釣竿は野布袋の具合のいいのを他の竹の竿につないで穂竹《ほだけ》として使います。丸というと、一竿《ひとさお》全部がそれなのです。丸が良い訳はないのですが、丸でいて調子の良い、使えるようなものは、稀物《まれもの》で、つまり良いものという訳になるのです。
「そんなこと言ったって欲しかあねえ」と取合いませんでした。
が、吉には先刻《さっき》客の竿をラリにさせたことも含んでいるからでしょうか、竿を取ろうと思いまして、折らぬように加減をしながらグイと引きました。すると中浮《ちゅううき》になっていた御客様は出て来ない訳には行きませんでした。中浮と申しますのは、水死者に三態あります、水面に浮ぶのが一ツ、水底に沈むのが一ツ、両者の間が即ち中浮です。引かれて死体は丁度客の坐の直ぐ前に出て来ました。
「詰《つま》らねえことをするなよ、お返し申せと言ったのに」と言いながら、傍《そば》に来たものですから、その竿を見まするというと、如何《いか》にも具合の好さそうなものです。竿というものは、節《ふし》と節とが具合よく順々に、いい割合を以て伸びて行ったのがつまり良い竿の一条件です。今手元からずっと現われた竿を見ますと、一目《ひとめ》にもわかる実に良いものでしたから、その武士も、思わず竿を握りました。吉は客が竿へ手をかけたのを見ますと、自分の方では持切れませんので
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