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「放しますよ」といって手を放して終《しま》った。竿尻より上の一尺ばかりのところを持つと、竿は水の上に全身を凛とあらわして、あたかも名刀の鞘《さや》を払ったように美しい姿を見せた。
持たない中《うち》こそ何でもなかったが、手にして見るとその竿に対して油然《ゆうぜん》として愛念《あいねん》が起った。とにかく竿を放そうとして二、三度こづいたが、水中の人が堅く握っていて離れない。もう一|寸《すん》一寸に暗くなって行く時、よくは分らないが、お客さんというのはでっぷり肥《ふと》った、眉の細くて長いきれいなのが僅《わずか》に見える、耳朶《みみたぶ》が甚《はなは》だ大きい、頭はよほど禿《は》げている、まあ六十近い男。着ている物は浅葱《あさぎ》の無紋《むもん》の木綿縮《もめんちぢみ》と思われる、それに細い麻《あさ》の襟《えり》のついた汗取《あせと》りを下につけ、帯は何だかよく分らないけれども、ぐるりと身体《からだ》が動いた時に白い足袋《たび》を穿《は》いていたのが目に浸《し》みて見えた。様子を見ると、例えば木刀にせよ一本差して、印籠《いんろう》の一つも腰にしている人の様子でした。
「どうしような」と思わず小声で言った時、夕風が一※[#「※」は小書きの「ト」]筋さっと流れて、客は身体《からだ》の何処《どこ》かが寒いような気がした。捨ててしまっても勿体《もったい》ない、取ろうかとすれば水中の主《ぬし》が生命《いのち》がけで執念深く握っているのでした。躊躇《ちゅうちょ》のさまを見て吉はまた声をかけました。
「それは旦那、お客さんが持って行ったって三途川《さんずのかわ》で釣をする訳でもありますまいし、お取りなすったらどんなものでしょう。」
そこでまたこづいて見たけれども、どうしてなかなかしっかり掴《つか》んでいて放しません。死んでも放さないくらいなのですから、とてもしっかり握っていて取れない。といって刃物を取出《とりだ》して取る訳にも行かない。小指でしっかり竿尻を掴《つか》んで、丁度それも布袋竹《ほていだけ》の節の処を握っているからなかなか取れません。仕方がないから渋川流《しぶかわりゅう》という訳でもないが、わが拇指《おやゆび》をかけて、ぎくりとやってしまった。指が離れる、途端に先《せん》主人《しゅじん》は潮下《しおしも》に流れて行ってしまい、竿はこちらに残りました。かりそめな
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