がら戦ったわが掌《て》を十分に洗って、ふところ紙《がみ》三、四枚でそれを拭《ぬぐ》い、そのまま海へ捨てますと、白い紙玉《かみだま》は魂《たましい》ででもあるようにふわふわと夕闇の中を流れ去りまして、やがて見えなくなりました。吉は帰りをいそぎました。
「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏、ナア、一体どういうのだろう。なんにしても岡釣《おかづり》の人には違いねえな。」
「ええ、そうです。どうも見たこともねえ人だ。岡釣でも本所、深川《ふかがわ》、真鍋河岸《まなべがし》や万年《まんねん》のあたりでまごまごした人とも思われねえ、あれは上《かみ》の方の向島《むこうじま》か、もっと上の方の岡釣師ですな。」
「なるほど勘が好い、どうもお前うまいことを言う、そして。」
「なアに、あれは何でもございませんよ、中気《ちゅうき》に決まっていますよ。岡釣をしていて、変な処にしゃがみ込んで釣っていて、でかい魚《さかな》を引《ひっ》かけた途端に中気が出る、転げ込んでしまえばそれまででしょうネ。だから中気の出そうな人には平場でない処の岡釣はいけねえと昔から言いまさあ。勿論《もちろん》どんなところだって中気にいいことはありませんがネ、ハハハ。」
「そうかなア。」
それでその日は帰りました。
いつもの河岸に着いて、客は竿だけ持って家に帰ろうとする。吉が
「旦那は明日《あす》は?」
「明日も出るはずになっているんだが、休ませてもいいや。」
「イヤ馬鹿雨《ばかあめ》でさえなければあっしゃあ迎えに参りますから。」
「そうかい」と言って別れた。
あくる朝起きてみると雨がしよしよと降っている。
「ああこの雨を孕んでやがったんで二、三日|漁《りょう》がまずかったんだな。それとも赤潮《あかしお》でもさしていたのかナ。」
約束はしたが、こんなに雨が降っちゃ奴《やつ》も出て来ないだろうと、その人は家《うち》にいて、しょうことなしの書見《しょけん》などしていると、昼近くなった時分に吉はやって来た。庭口からまわらせる。
「どうも旦那、お出《で》になるかならないかあやふやだったけれども、あっしゃあ舟を持って来ておりました。この雨はもう直《じき》あがるに違《ちげ》えねえのですから参りました。御伴《おとも》をしたいともいい出せねえような、まずい後《あと》ですが。」
「アアそうか、よく来て
前へ
次へ
全21ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング