りの人夫を雇ひ入れる、今日でも兵士の外に軍夫の必要があると同様で、平時でも士分以外のものなどの事故があつて引いたり居なくなつたり為た時分にも、夫れに代へる人間の必要もある、其の需要を満たす為に大名や武門と平民商人との間に、今の雇人口入業とも一緒には言へぬが所謂「人入れ」なる職業があつた。而して其の人入れ親方なるものは、職業の性質上どうしても侠客肌の者で無ければならぬ処から、斯う云ふ種類の親方なるものは大抵侠客の名を以て呼ばれたもので、たとへば近世の大侠客相政の如きも亦た土州侯の人入れであつたし、新門辰五郎の如きも矢張りたゞの博徒ではない。此等は寧ろ前述の博徒などとは全く訳が違ふのである。凡て侠客には此の一種類がある。以上で三種あつた訳だ。
 夫れで古い書物に見える初期の侠客は、「武野俗談」などにあるのであるが、正確の事実は能く解らぬ。之は古の談話製造家が面白く書き出したもので、尤も多少の事実はあつたにした処が正確なことは解つて居らぬ。西鶴も武士とか商人とか色※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、198−1]な階級を一つづゝに纏めて、其の特性|気質《かたぎ》をいかにも綿密に巧みに書き表はして居る「武道伝来記」とか「世間胸算用」とか、其他にも色※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、198−2]あるが、どうも侠客を専門にまとめて書いたものは一つも無い。近松のものでも全く無いといふでは無いが、後の講談師の述べるやうな侠客は描いて居らぬ。之は一つは地方的関係もあらうが、兎に角初期の侠客の面目は解つて居らぬ。多少雑劇などに残つてる計りで、今日からは精確の状態は知り難いのである。
 然るに天明以後に顕はれる博徒の事蹟になると、之は多少明白になつて来る。殊に講釈師の飯の種になつて居る博徒は最も多く関東に居り、関東でも甲州、上州、野州、常州などいふ国は、侠客や博徒の名に連れて必ず呼び出されるのは余程面白いことである。之には一つの理由のあることで、博徒の非常に横行する処には必らず有名な山がある。常陸には筑波山、上総には鹿野山、上州には榛名、赤城、野州には日光、甲州には山が到る処にある。而して此等の山の上には山神のあるのみではない、山に相当した駅場のやうな町が建つて居て、其の盛んな所には、おじやれや遊女の様な者までがある。斯うした場所は皆な恰好な賭場の開かれる地であつて、
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング