間遠に立つてゐる七八軒の家の前を過ぎた。何《ど》の家も人が居ないやうに岑閑《しんかん》としてゐた。そこを出抜けると成程寺の門が見えた。瓦に草が生えて居る。それが今雨に湿《ぬ》れてゐるので甚《ひど》く古びて重さうに見えるが、兎に角可なり其昔の立派さが偲ばれると同時に今の甲斐無さが明らかに現はれてゐるのであつた。門を入ると寺内は思ひのほかに廓落《くわらり》と濶《ひろ》くて、松だか杉だか知らぬが恐ろしい大きな木が有つたのを今より何年か前に斫つたと見えて、大きな切株の跡の上を、今降りつゝある雨がおとづれて其処に然様いふものの有ることを見せてゐた。右手に鐘楼が有つて、小高い基礎《いしずゑ》の周囲には風が吹寄せた木の葉が黄色く又は赭く湿れ色を見せて居り、中ぐらゐな大さの鐘が、漸く逼る暮色の中に、裾は緑青の吹いた明るさと、竜頭の方は薄暗さの中に入つて居る一種の物※[#二の字点、1−2−22]しさを示して寂寞と懸つてゐた。これだけの寺だから屋の棟の高い本堂が見えさうなものだが、それは回祿したのか何様か知らぬが眼に入らなくて、小高い処に庫裡様《くりやう》の建物があつた。それを目ざして進むと、丁度本堂仏殿の在りさうな位置のところに礎石が幾箇《いくつ》ともなく見えて、親切な雨が降る度に訪問するのであらう今も其訪問に接して感謝の嬉し涙を溢らせてゐるやうに、柱の根入りの竅《あな》に水を湛へてゐるのが能く見えた。境内の変にからりとして居る訳もこれで合点が行つて、有る可きものが亡《う》せてゐるのだなと思ひながら、庫裡へと入つた。正面はぴつたりと大きな雨戸が鎖されてゐたから、台所口のやうな処が明いてゐたまゝ入ると、馬鹿にだゞ濶い土間で、土間の向ふ隅には大きな土竈《へつつひ》が見え、つい入口近くには土だらけの腐つたやうな草履が二足ばかり、古い下駄が二三足、特《こと》に歯の抜けた下駄の一ツがひつくり返つて腹を出して死んだやうにころがつてゐたのが、晩成先生のわびしい思を誘つた。
 頼む、
と余り大きくは無い声で云つたのだが、がらんとした広土間に響いた。しかし其為に塵一ツ動きもせず、何の音も無く静であつた。外にはサアッと雨が降つてゐる。
 頼む、
と再び呼んだ。声は響いた。答は無い。サアッと雨が降つてゐる。
 頼む、
と三たび呼んだ。声は呼んだ其人の耳へ反つて響いた。然し答は何処からも起らなかつた。外はたゞサアッと雨が降つてゐる。
 頼む。
 また呼んだ。例の如くやゝしばし音沙汰が無かつた。少し焦《じ》れ気味になつて、また呼ばうとした時、鼬《いたち》か大鼠かが何処かで動いたやうな音がした。すると頓《やが》て人の気はひがして、左方の上り段の上に閉ぢられてゐた間延びのした大きな障子が、がた/\と開かれて、鼠木綿が斑汚《むらよご》れした着附に、白が鼠になつた帯をぐる/\と所謂坊主巻に巻いた、五分苅では無い五分生えに生えた頭の十八か九の書生のやうな僮僕《どうぼく》のやうな若僧が出て来た。晩成先生も大分遊歴に慣れて来たので、此処で宿泊謝絶などを食はせられては堪らぬと思ふので、ずん/\と来意を要領よく話して、白紙に包んだ多少銭《なにがし》かを押付けるやうに渡して仕舞つた。若僧はそれでも坊主らしく、
 しばらく、
と、しかつめらしく挨拶を保留して置いて奥へ入つた。奥は大分深いかして何の音も聞えて来ぬ、シーンとしてゐる。外では雨がサアッと降つてゐる。
 土間の中の異つた方で音がしたと思ふと、若僧は別の口から土間へ下りて、小盥へ水を汲んで持つて来た。
 マ、兎に角御すゝぎをなさつて御上りなさいまし。
 しめたと思つて晩成先生泥靴を脱ぎ足を洗つて導かるゝまゝに通つた。入口の室《へや》は茶の間と見えて大きな炉が切つてある十五六畳の室であつた。そこを通り抜けて、一畳幅に五畳か六畳を長く敷いた入側《いりかは》見たやうな薄暗い部屋を通つたが、茶の間でも其部屋でも処※[#二の字点、1−2−22]で、足踏につれてポコ/\と弛んで浮いて居る根太板のヘンな音がした。
 通されたのは十畳位の室で、そこには大きな矮《ひく》い机を横にして此方へ向直つてゐた四十ばかりの日に焦けて赭い顔の丈夫さうなヅク入が、赤や紫の見える可笑しい程|華美《はで》では有るが然しもう古びかへつた馬鹿に大きくて厚い蒲団の上に、小さな円い眼を出来るだけ※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]開《さうかい》してムンヅと坐り込んでゐた。麦藁帽子を冠らせたら頂上《てつぺん》で踊を踊りさうなビリケン頭に能く実が入つて居て、これも一分苅では無い一分生えの髪に、厚皮らしい赭い地が透いて見えた。そして其の割合に小さくて素敵に堅さうな首を、発達の好い丸※[#二の字点、1−2−22]と肥つた豚のやうな濶い肩の上にシッカリすげ込んだやうにして、ヒョロ/\と風の柳のやうに室へ入り込んだ大器氏に対つて、一刀をピタリと片身青眼に擬《つ》けたといふ工合に手丈夫な視線を投げかけた。晩成先生聊かたぢろいだが、元来正直な君子で仁者敵無しであるから驚くことも無い、平然として坐つて、来意を手短に述べて、それから此処を教へて呉れた遊歴者の噂をした。和尚は其姓名を聞くと、合点が行つたのかして、急にくつろいだ様子になつて、
 アヽ、あの風吹烏《かざふきがらす》から聞いておいでなさつたかい。宜うござる、いつまででもおいでなさい。何室《どこ》でも明いてゐる部屋に勝手に陣取らつしやい、其代り雨は少し漏るかも知れんよ。夜具はいくらもある。綿は堅いがナ。馳走はせん、主客平等と思はつしやい。蔵海《ざうかい》、(仮設し置く)風呂は門前の弥平爺にいひつけての、明日から毎日立てさせろ。無銭《たゞ》ではわるい、一日三銭も遣はさるやうに計らへ。疲れてだらう、脚を伸ばして休息せらるゝやうにしてあげろ。
 蔵海は障子を開けて庭へ面した縁へ出て導いた。後に跟いて縁側を折曲つて行くと、同じ庭に面して三ツ四ツの装飾も何も無い空室《あきま》があつて、縁の戸は光線を通ずる為ばかりに三寸か四寸位づゝすかしてあるに過ぎぬので、中はもう大に暗かつた。此室《こゝ》が宜からうといふ蔵海の言のまゝ其室の前に立つて居ると、蔵海は其処だけ雨戸を繰つた。庭の樹※[#二の字点、1−2−22]は皆雨に悩んでゐた。雨は前にも増して恐しい量で降つて、老朽《おいく》ちてジグザグになつた板廂《いたびさし》からは雨水がしどろに流れ落ちる、見ると簷《のき》の端に生えて居る瓦葦《しのぶぐさ》が雨にたゝかれて、あやまつた、あやまつたといふやうに叩頭《おじぎ》して居るのが見えたり隠れたりしてゐる。空は雨に鎖されて、たゞさへ暗いのに、夜はもう逼つて来る。中※[#二の字点、1−2−22]広い庭の向ふの方はもう暗くなつてボンヤリとしてゐる。たゞもう雨の音ばかりザアッとして、空虚にちかい晩成先生の心を一ぱいに埋め尽してゐるが、ふと気が付くと其のザアッといふ音のほかに、また別にザアッといふ音が聞えるやうだ。気を留めて聞くと慥に別の音がある。ハテナ、彼の辺か知らんと、其の別の音のする方の雨煙濛※[#二の字点、1−2−22]たる見当へ首を向けて眼を遣ると、もう心安げになつた蔵海が一寸肩に触つて、
 あの音のするのが滝ですよ、貴方が風呂に立てゝ入らうとなさる水の落ちる……
と云ひさして、少し間を置いて、
 雨が甚《ひど》いので今は能く見えませんが、晴れて居れば此庭の景色の一ツになつて見えるのです。
と云つた。成程庭の左の方の隅は山嘴《さんし》が張り出してゐて、其の樹木の鬱蒼たる中から一条の水が落ちてゐるのらしく思へた。
 夜に入つた。茶の間に引かれて、和尚と晩成先生と蔵海とは食事を共にした。成程御馳走は無かつた。冷い挽割飯《ひきわりめし》と、大根ッ葉の味噌汁と、塩辛く煮た車輪麩《くるまぶ》と、何だか正体の分らぬ山草の塩漬の香の物ときりで、膳こそは創だらけにせよ黒塗の宗和膳《そうわぜん》とかいふ奴で、御客あしらひではあるが、箸は黄色な下等の漆ぬりの竹箸で、気持の悪いものであつた。蔵海は世間に接触する機会の少い此の様な山中に居る若い者なので、新来の客から何等かの耳新らしい談を得たいやうであるが、和尚は人に求められゝば是非無いから吾が有つてゐる者を吝《をし》みはしないが、人からは何をも求めまいといふやうな態度で、別に雑話を聞き度くも聞かせ度くも思つて居らぬ風で、食事が済んで後、少時《しばらく》三人が茶を喫してゐる際でも、別に会話をはづませる如きことはせぬので、晩成先生はたゞ僅に、此寺が昔時《むかし》は立派な寺であつたこと、寺の庭のずつと先は渓川で、其渓の向ふは高い巌壁になつてゐること、庭の左方も山になつてゐること、寺及び門前の村家のある辺一帯は一大盆地を為してゐる事位の地勢の概略を聞き得たに過ぎ無かつたが、蔵海も和尚も、時※[#二の字点、1−2−22]風の工合でザアッといふ大雨の音が聞えると、一寸暗い顔をしては眼を見合せるのが心に留まつた。
 大器氏は定められた室へ引取つた。堅い綿の夜具は与へられた。所在無さの身を直に其中に横たへて、枕許の洋燈《ランプ》の心を小さくして寝たが、何と無く寐つき兼ねた。茶の間の広いところに薄暗い洋燈、何だか銘※[#二の字点、1−2−22]の影法師が顧視《かへりみ》らるゝ様な心地のする寂しい室内の雨音の聞える中で寒素な食事を黙※[#二の字点、1−2−22]として取つた光景が眼に浮んで来て、自分が何だか今迄の自分で無い、別の世界の別の自分になつたやうな気がして、まさかに死んで別の天地に入つたのだとは思は無いが、何様《どう》も今までに覚えぬ妙な気がした。然し、何の、下らないと思ひ返して眠らうとしたけれども、やはり眠に落ちない。雨は恐ろしく降つて居る。恰も太古から尽未来際《じんみらいざい》まで大きな河の流が流れ通してゐるやうに雨は降り通して居て、自分の生涯の中の或日に雨が降つて居るのでは無くて、常住不断の雨が降り通して居る中に自分の短い生涯が一寸|挿《はさ》まれて居るものでゞもあるやうに降つて居る。で、それが又気になつて睡れぬ。鼠が騒いで呉れたり狗《いぬ》が吠えて呉れたりでもしたらば嬉しからうと思ふほど、他には何の音も無い。住持も若僧も居ないやうに静かだ。イヤ全く吾が五官の領する世界には居無いのだ。世界といふ者は広大なものだと日頃は思つて居たが、今は何様だ、世界はたゞ是れ
 ザアッ
といふものに過ぎないと思つたり、又思ひ反して、此のザアッといふのが即ち是れ世界なのだナと思つたりしてゐる中に、自分の生れた時に初めて拳げたオギャア/\の声も他人の※[#「囗<力」、159−上−1]地《ぎやつと》云つた一声も、それから自分が書《ほん》を読んだり、他の童子《こども》が書を読んだり、唱歌をしたり、嬉しがつて笑つたり、怒つて怒鳴つたり、キャア/\ガン/\ブン/\グヅ/\シク/\、いろ/\な事をして騒ぎ廻つたりした一切の音声《おんじやう》も、それから馬が鳴き牛が吼《ほ》え、車ががたつき、汽車が轟き、汽船が浪を蹴開く一切の音声も、板の間へ一本の針が落ちた幽かな音も、皆残らず一緒になつて彼のザアッといふ音の中に入つて居るのだナ、といふやうな気がしたりして、そして静かに諦聴《たいちやう》すると分明《ぶんみやう》に其の一ツのザアッといふ音にいろ/\の其等の音が確実に存して居ることを認めて、アヽ然様だつたかナ、なんぞと思ふ中に、何時か知らずザアッといふ音も聞え無くなり、聞く者も性が抜けて、そして眠に落ちた。
 俄然として睡眠は破られた。晩成先生は眼を開くと世界は紅い光や黄色い光に充たされてゐると思つたが、それは自分の薄暗いと思つてゐたのに相異して、室の中が洋燈も明るくされてゐれば、又其|外《ほか》に提灯なども吾が枕辺に照されてゐて、眠に就いた時と大に異なつて居たのが寝惚眼に映つたからの感じであつた事が解つた。が、見れば和尚も若僧も吾が枕辺に居る。何事が起つたのか、其の意味は分らなかつた。けゞんな心持がするので、頓《とみ》には言葉も出ずに起直つたまゝ二人を見
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