ると、若僧が先づ口をきつた。
 御やすみになつてゐるところを御起しして済みませんが、夜前からの雨が彼の通り甚くなりまして、渓が俄に膨れてまゐりました。御承知でせうが奥山の出水《でみづ》は馬鹿に疾《はや》いものでして、もう境内にさへ水が見え出して参りました。勿論水が出たとて大事にはなりますまいが、此地《こゝ》の渓川の奥入《おくいり》は恐ろしい広い緩傾斜《くわんけいしや》の高原なのです。むかしはそれが密林だつたので何事も少かつたのですが、十余年前に悉く伐採したため禿げた大野になつて仕舞つて、一[#(ト)]夕立しても相当に渓川が怒るのでして、既に当寺の仏殿は最初の洪水の時、流下して来た巨材の衝突によつて一角が壊《やぶ》れたため遂に破壊して仕舞つたのです。其後は上流に巨材などは有りませんから、水は度※[#二の字点、1−2−22]出ても大したことも無く、出るのが早い代りに退《ひ》くのも早くて、直に翌日《あくるひ》は何の事も無くなるのです。それで昨日からの雨で渓川はもう開きましたが、水は何の位で止まるか予想は出来ません。しかし私共は慣れても居りますし、此処を守る身ですから逃げる気も有りませんが、貴方には少くとも危険――は有りますまいが余計な御心配はさせたく有りません。幸なことには此庭の左方《ひだり》の高みの、彼の小さな滝の落ちる小山の上は絶対に安全地で、そこに当寺の隠居所の草庵があります。そこへ今の内に移つて居て頂きたいのです。わたくしが直に御案内致します、手早く御支度をなすつて頂きます。
ト末の方はもはや命令的に、早口に能弁にまくし立てた。其後について和尚は例の小さな円い眼に力を入れて※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]開しながら、
 膝まで水が来るやうだと歩けんからノ、早く御身繕《おみづくろ》ひなすつて。
と追立てるやうに警告した。大器晩成先生は一[#(ト)]たまりも無く浮腰になつて仕舞つた。
 ハイ、ハイ、御親切に、有難うございます。
ト少しドギマギして、顫へて居はしまいかと自分でも気が引けるやうな弱い返辞をしながら、慌てゝ衣を着けて支度をした。勿論少し大きな肩から掛ける鞄《カバン》と、風呂敷包一ツ、蝙蝠傘一本、帽子、それだけなのだから直に支度は出来た。若僧は提灯を持つて先に立つた。此時になつて初めて其の服装《みなり》を見ると、依然として先刻《さつき》の鼠の衣だつたが、例の土間のところへ来ると、そこには蓑笠が揃へてあつた。若僧は先づ自ら尻を高く端折つて蓑を甲斐※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]しく手早く着けて、そして大器氏にも手伝つて一ツの蓑を着けさせ、竹の皮笠を被せ、其紐を緊《きび》しく結んで呉れた。余り緊しく結ばれたので口を開くことも出来ぬ位で、随分痛かつたが、黙つて堪へると、若僧は自分も笠を被つて、
 サア、
と先へ立つた。提灯の火はガランとした黒い大きな台所に憐れに小さな威光を弱※[#二の字点、1−2−22]と振つた。外は真暗で、雨の音は例の如くザアッとして居る。
 気をつけてあげろ、ナ。
と和尚は親切だ。高※[#二の字点、1−2−22]とズボンを捲り上げて、古草鞋《ふるわらぢ》を着けさせられた晩成|子《し》は、何処へ行くのだか分らない真黒暗《まつくらやみ》の雨の中を、若僧に随つて出た。外へ出ると驚いた。雨は横振りになつてゐる、風も出てゐる。川鳴の音だらう、何だか物凄い不明の音がしてゐる。庭の方へ廻つたやうだと思つたが、建物を少し離れると、成程もう水が来てゐる。足の裏が馬鹿に冷い。親指が没する、踝《くるぶし》が没する、脚首が全部没する、ふくら脛《はぎ》あたりまで没すると、もう中※[#二の字点、1−2−22]渓の方から流れる水の流れ勢《ぜい》が分明にこたへる。空気も大層冷たくなつて、夜雨の威がひし/\と身に浸みる。足は恐ろしく冷い。足の裏は痛い。胴ぶるひが出て来て止まらない。何か知らん痛いものに脚の指を突掛けて、危く大器氏は顛倒しさうになつて若僧に捉まると、其途端に提灯はガクリと揺《ゆら》めき動いて、蓑の毛に流れてゐる雨の滴の光りをキラリと照らし出したかと思ふと、雨が入つたか滴がかゝつたかであらう、チュッと云つて消えて仕舞つた。風の音、雨の音、川鳴の音、樹木の音、たゞもう天地はザーッと、黒漆のやうに黒い闇の中に音を立てゝ居るばかりだ。晩成先生は泣きたくなつた。
 ようございます、今更帰れもせず、提灯を点火《つけ》ることも出来ませんから、何様せ差して居るのでは無い其の蝙蝠傘《かうもり》をお出しない。然様※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]《さう/\》。わたくしが此方を持つ、貴方はそちらを握つて、決して離してはいけませんよ。闇でもわたしは行けるから、恐れることはありません。

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