ト蔵海先生実に頼もしい。平常は一[#(ト)]通りの意地が無くもない晩成先生も、こゝに至つて多力宗になつて仕舞つて、たゞもう世界に力とするものは蝙蝠傘一本、其の蝙蝠傘の此方《こつち》は自分が握つてゐるが、彼方《むかふ》は真の親切者が握つてゐるのだか狐狸が握つて居るのだが、妖怪変化、悪魔の類が握つてゐるのだか、何だか彼だかサッパり分らない黒闇※[#二の字点、1−2−22]《こくあん/\》の中を、兎に角後生大事にそれに縋つて随つて歩いた。
水は段※[#二の字点、1−2−22]足に触れなくなつて来た。爪先上りになつて来たやうだ。やがて段※[#二の字点、1−2−22]勾配が急になつて来た。坂道にかゝつたことは明らかになつて来た。雨の中にも滝の音は耳近く聞えた。
もうこゝを上りさへすれば好いのです。細い路ですからね、わたくしも路で無いところへ踏込《ふんご》むかも知れませんが、転びさへしなければ草や樹で擦りむく位ですから驚くことは有りません。ころんではいけませんよ、そろ/\歩いてあげますからね。
ハハイ、有り難う。
ト全く顫へ声だ。何様して中※[#二の字点、1−2−22]足が前へ出るものでは無い。
かうなると人間に眼の有つたのは全く余り有り難くありませんね、盲目《めくら》の方が余程重宝です、アッハヽハヽ。わたくしも大分小さな樹の枝で擦剥き疵をこしらへましたよ。アッハヽハヽ。
ト蔵海め、流石に仏の飯で三度の埒を明けて来た奴だけに大禅師らしいことを云つたが、晩成先生はたゞもうビク/\ワナ/\で、批評の余地などは、余程喉元過ぎて怖いことが糞になつた時分までは有り得はし無かつた。
路は一[#(ト)]しきり大に急になり且又|窄《せま》くなつたので、胸を突くやうな感じがして、晩成先生は遂に左の手こそは傘をつかまへて居るが、右の手は痛むのも汚れるのも厭つてなど居られないから、一歩/\に地面を探るやうにして、まるで四足獣が三足で歩くやうな体《てい》になつて歩いた。随分長い時間を歩いたやうな気がしたが、苦労には時間を長く感じるものだから実際は然程でも無かつたらう。然し一町余は上つたに違ひ無い。漸くだら/\坂になつて、上りきつたナと思ふと、
サア来ました。
ト蔵海が云つた。そして途端に持つて居た蝙蝠傘の一端を放した。で、大器氏は全く不知案内の暗中の孤立者になつたから、黙然として石の地蔵のやうに身じろぎもしないで、雨に打たれながらポカンと立つて居て、次の脈搏、次の脈搏を数へるが如き心持になりつゝ、次の脈が搏つ時に展開し来る事情をば全くアテも無く待つのであつた。
若僧はそこらに何か為て居るのだらう、しばらくは消息も絶えたが、やがてガタ/\いふ音をさせた。雨戸を開けたに相違無い。それから少し経て、チッチッといふ音がすると、パッと火が現はれて、彼は一ツの建物の中の土間に踞《うづくま》つてゐて、マッチを擦つて提灯の蝋燭に火を点じやうとして居るのであつた。四五本のマッチを無駄にして、やつと火は点いた。荊棘《いばら》か山椒《さんせう》の樹のやうなもので引爬《ひつか》いたのであらう、雨にぬれた頬から血が出て、それが散つて居る、そこへ蝋燭の光の映つたさまは甚だ不気味だつた。漸く其処へ歩み寄つた晩成先生は、
怪我をしましたね、御気の毒でした。
と云ふと、若僧は手拭を出して、此処でせう、と云ひながら顔を拭いた。蚯蚓脹《みゝずば》れの少し大きいの位で、大した事では無かつた。
急いで居るからであらう、若僧は直に其手拭で泥足をあらましに拭いて、提灯を持つたまゝ、ずん/\と上り込んだ。四畳半の茶の間には一尺二寸位の小炉が切つてあつて、竹の自在鍵《じざい》の煤びたのに小さな茶釜が黒光りして懸つて居るのが見えたかと思ふと、若僧は身を屈して敬虔《けいけん》の態度にはなつたが、直と区劃《しきり》になつてゐる襖を明けて其の次の室《ま》へ、云はゞ闖入《ちんにふ》せんとした。土間からオヅ/\覗いて見て居る大器氏の眼には、六畳敷位の部屋に厚い坐蒲団を敷いて死せるが如く枯坐して居た老僧が見えた。着色の塑像の如くで、生きて居るものとも思へぬ位であつた。銀のやうな髪が五分ばかり生えて、細長い輪郭の正しい顔の七十位の痩せ枯《から》びた人ではあつたが、突然の闖入に対して身じろぎもせず、少しも驚く様子も無く落つき払つた態度で、恰も今まで起きてゞも居た者のやうであつた。特《こと》に晩成先生の驚いたのは、蔵海が其老人に対して何も云はぬことであつた。そして其老僧の坐辺の洋燈《ランプ》を点火すると、蔵海は立返つて大器氏を上へ引ずり上げようとした。大器氏は慌てゝ足を拭つて上ると、老僧はジーッと細い眼を据ゑて其顔を見詰めた。晩成先生は急に挨拶の言葉も出ずに、何か知らず叮嚀に叩頭《おじぎ》をさせられて仕舞つた。そ
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