、貴方が風呂に立てゝ入らうとなさる水の落ちる……
と云ひさして、少し間を置いて、
 雨が甚《ひど》いので今は能く見えませんが、晴れて居れば此庭の景色の一ツになつて見えるのです。
と云つた。成程庭の左の方の隅は山嘴《さんし》が張り出してゐて、其の樹木の鬱蒼たる中から一条の水が落ちてゐるのらしく思へた。
 夜に入つた。茶の間に引かれて、和尚と晩成先生と蔵海とは食事を共にした。成程御馳走は無かつた。冷い挽割飯《ひきわりめし》と、大根ッ葉の味噌汁と、塩辛く煮た車輪麩《くるまぶ》と、何だか正体の分らぬ山草の塩漬の香の物ときりで、膳こそは創だらけにせよ黒塗の宗和膳《そうわぜん》とかいふ奴で、御客あしらひではあるが、箸は黄色な下等の漆ぬりの竹箸で、気持の悪いものであつた。蔵海は世間に接触する機会の少い此の様な山中に居る若い者なので、新来の客から何等かの耳新らしい談を得たいやうであるが、和尚は人に求められゝば是非無いから吾が有つてゐる者を吝《をし》みはしないが、人からは何をも求めまいといふやうな態度で、別に雑話を聞き度くも聞かせ度くも思つて居らぬ風で、食事が済んで後、少時《しばらく》三人が茶を喫してゐる際でも、別に会話をはづませる如きことはせぬので、晩成先生はたゞ僅に、此寺が昔時《むかし》は立派な寺であつたこと、寺の庭のずつと先は渓川で、其渓の向ふは高い巌壁になつてゐること、庭の左方も山になつてゐること、寺及び門前の村家のある辺一帯は一大盆地を為してゐる事位の地勢の概略を聞き得たに過ぎ無かつたが、蔵海も和尚も、時※[#二の字点、1−2−22]風の工合でザアッといふ大雨の音が聞えると、一寸暗い顔をしては眼を見合せるのが心に留まつた。
 大器氏は定められた室へ引取つた。堅い綿の夜具は与へられた。所在無さの身を直に其中に横たへて、枕許の洋燈《ランプ》の心を小さくして寝たが、何と無く寐つき兼ねた。茶の間の広いところに薄暗い洋燈、何だか銘※[#二の字点、1−2−22]の影法師が顧視《かへりみ》らるゝ様な心地のする寂しい室内の雨音の聞える中で寒素な食事を黙※[#二の字点、1−2−22]として取つた光景が眼に浮んで来て、自分が何だか今迄の自分で無い、別の世界の別の自分になつたやうな気がして、まさかに死んで別の天地に入つたのだとは思は無いが、何様《どう》も今までに覚えぬ妙な気がした。然し、何の、下らないと思ひ返して眠らうとしたけれども、やはり眠に落ちない。雨は恐ろしく降つて居る。恰も太古から尽未来際《じんみらいざい》まで大きな河の流が流れ通してゐるやうに雨は降り通して居て、自分の生涯の中の或日に雨が降つて居るのでは無くて、常住不断の雨が降り通して居る中に自分の短い生涯が一寸|挿《はさ》まれて居るものでゞもあるやうに降つて居る。で、それが又気になつて睡れぬ。鼠が騒いで呉れたり狗《いぬ》が吠えて呉れたりでもしたらば嬉しからうと思ふほど、他には何の音も無い。住持も若僧も居ないやうに静かだ。イヤ全く吾が五官の領する世界には居無いのだ。世界といふ者は広大なものだと日頃は思つて居たが、今は何様だ、世界はたゞ是れ
 ザアッ
といふものに過ぎないと思つたり、又思ひ反して、此のザアッといふのが即ち是れ世界なのだナと思つたりしてゐる中に、自分の生れた時に初めて拳げたオギャア/\の声も他人の※[#「囗<力」、159−上−1]地《ぎやつと》云つた一声も、それから自分が書《ほん》を読んだり、他の童子《こども》が書を読んだり、唱歌をしたり、嬉しがつて笑つたり、怒つて怒鳴つたり、キャア/\ガン/\ブン/\グヅ/\シク/\、いろ/\な事をして騒ぎ廻つたりした一切の音声《おんじやう》も、それから馬が鳴き牛が吼《ほ》え、車ががたつき、汽車が轟き、汽船が浪を蹴開く一切の音声も、板の間へ一本の針が落ちた幽かな音も、皆残らず一緒になつて彼のザアッといふ音の中に入つて居るのだナ、といふやうな気がしたりして、そして静かに諦聴《たいちやう》すると分明《ぶんみやう》に其の一ツのザアッといふ音にいろ/\の其等の音が確実に存して居ることを認めて、アヽ然様だつたかナ、なんぞと思ふ中に、何時か知らずザアッといふ音も聞え無くなり、聞く者も性が抜けて、そして眠に落ちた。
 俄然として睡眠は破られた。晩成先生は眼を開くと世界は紅い光や黄色い光に充たされてゐると思つたが、それは自分の薄暗いと思つてゐたのに相異して、室の中が洋燈も明るくされてゐれば、又其|外《ほか》に提灯なども吾が枕辺に照されてゐて、眠に就いた時と大に異なつて居たのが寝惚眼に映つたからの感じであつた事が解つた。が、見れば和尚も若僧も吾が枕辺に居る。何事が起つたのか、其の意味は分らなかつた。けゞんな心持がするので、頓《とみ》には言葉も出ずに起直つたまゝ二人を見
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